第47話 実は結愛も使ったことがあるホームジム

 夜のことだった。


 結愛が名雲家に来なかったこの日、俺は一人でホームジムにいた。

 我が家には広い庭があるのだが、家の隣には体育倉庫みたいな建物があり、そこは様々なトレーニングマシンが置いてあった。親父が用意したものだ。職業柄、親父はいつでもトレーニングできる環境に身を置いておく必要があるからな。


 倉庫然とした灰色の室内だったが、空調は効いていて、真夏だろうと快適にトレーニングができる。


 俺は、筋トレをするにしても自重トレーニングばかりなので、このホームジムは滅多に使わない。昔、将来一緒にリングに立って親子対決がしたい、と考えていた親父の期待に応えるべく、ここを使っていた時期もあるのだが、すぐ音を上げたので、結局俺にとってはたまにトレッドミルを使って走る程度の縁遠い場所になっていた。


 俺がここにいるのは、鍛え直すためだ。

 体ではなく、心を、だ。

 健全な魂は健全な肉体に宿る、というのなら、健全な肉体をつくれば健全な魂を身につけれられるということ。


 要するに、強度の高いトレーニングを通じて自信をつけたかったのだ。


 昼間、桜咲から言われたことがずっと引っかかっていた。

 このままではいけない、なんとかして変わらないといけない、という気持ちは、こんな俺にだってある。


 俺は、所狭しと並ぶトレーニングマシンから、ベンチプレス用のベンチの前までやってくる。


 ベンチプレスは筋力トレーニングの定番で、胸板や腕を鍛えるものだ。


「まあ、ムキムキになる気はないし、なれないだろうけどな」


 見た目を変えることが目的ではない。高強度のトレーニングに耐えることで、自信をつけることが目的だ。


 重いバーベルを扱うベンチプレスは、使い方を間違えると危険だから、俺はできるだけ軽い重りで始めることにする。


 本来は補助が絶対に必要なのだが……紡希に手伝わせるわけにはいかない。ガチで筋トレを始めたと思われて軽蔑されるかもしれないから。女子は筋肉が嫌いって聞くもんな。紡希みたいな華奢で可憐なタイプは筋肉なんて男っぽいゴツゴツしたもの、絶対嫌がるだろうし。あと万が一重りを落として怪我をさせたら大変だ。


「補助がなくても、無茶さえしなければ平気だろ」


 親父のトレーニングを見てきた俺には、多少は筋トレの知識があるのだ。

 何が危険かなんて、理解している。


 俺は、原始時代のお金みたいな形をした重りでバーベルを調節して、専用のラックに乗せると、ベンチに背中をつける。


 寝そべったままバーベルを握った俺は、胸から上へ持ち上げたり下げたりを繰り返す。


 親父みたいな恵まれた体格ではなく、普段も、勉強前の準備運動程度の筋トレしかしていない俺だ。


 軽い重量だろうと、胸の筋肉はすぐ痛くなった。

 だが……痛いからといって、ここでやめるわけにはいかない。

 むしろここからが本番だ。


 辛いところから、更に頑張る。追い詰められた状態から耐え抜くことで、体と一緒に精神を鍛えなおそうというわけだ。これまで自重でトレーニングしていた時は、そこまで自分を追い込むことはなかった。本腰を入れて鍛えるような目的なんてなかったからだ。


 辛くなっても、俺はバーベルを上げ続けた。


 次第に、キツい、辛い、という思いが頭を占めるようになっていく。

 脳がそんな信号ばかり発するようになったせいか、記憶の片隅にある、キツかったり辛かったりした思い出が閉じ込められている引き出しを刺激してしまったようだ。


 俺の頭に浮かんだのは、母親との記憶だった。


 母親との思い出なんて、あいつが出ていった5歳までの記憶しかない。ほとんど、ないようなものだ。


 だというのに、そんな予兆はないどころか、冷たくされた経験なんてないはずなのに、ある日突然俺への興味を失ったみたいに名雲家から消えた時のことは、あれから10年以上経った今も夢に出るくらい強烈に頭に残っていた。


 ある日態度が急変して、それまでの日々を一方的に終わらせられてしまう。

 結愛でもそれは例外ではないかもしれない。

 結愛相手に踏み込めない理由の一つだった。


 勝手に決めつけて結愛を疑うのは、紡希や俺に優しい結愛を信用しきれていないようで、そして、自分の心の弱さを目の当たりにするようで、嫌悪感を催した。


 悲しみを跳ね除け、嫌悪感を振り切るように、俺はバーベルを持ち上げた。


 だが、俺の腕はとうに限界を迎えていたのだろう。

 握力を失くした俺の手から危うくバーベルの鉄棒がすり抜けそうになったのだが、鉄棒が胸を押しつぶすギリギリでどうにか受け止めることができた。


「……これ以上やると怪我しそうだな」


 俺は、ラックにバーベルを置き、立ち上がる。


「もう左腕が痛いし。変な受け止め方したせいかなー……」


 高負荷でトレーニングをしようとすると、こうして嫌なことを思い出してしまうことも、トレーニングから遠ざかってしまう理由だった。


 仮の話、だ。


 もし、俺が何かしらの訴えを母親にしていたとしたら、名雲家は何か変化があっただろうか?


「5歳児に何ができたって話だけどな……」


 どちらにせよ、あの頃の俺はひたすら無力だったのだ。

 どれだけ仮定の話を詰めようが、解決策なんて出るはずがない。


 だからこそ……同じようなことを繰り返さないための努力はできるはずなのだが、どう頑張ればいいのか、俺には皆目見当が付かないのだった。

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