エピローグ
その日は祝日で、平日ながら学校がなかった。
俺は一人で家にいた。
紡希は学校の友達と遊ぶと出かけていき、結愛も桜咲たちと街をぶらつくらしいから我が家には来ず、親父もまた巡業に出発してしまったから、こうなった。
だからといってヒマを持て余すことはなく、俺は勉強をしないといけないし、日課の家事もある。
いつもの日常なのだが、どことなく物足りなさを感じながら淡々と勉強と仕事を進めていく。
夕食作りが佳境に入った時、紡希が帰ってきた。
「シンにぃ、これから結愛さん来るの?」
部屋で着替えを終えた紡希が、とてとてとキッチンに寄ってきて不思議そうにする。
「いや。今日は友達と遊んでるみたいだから」
「じゃあなんでお魚一匹多いの?」
「あっ、マジだ」
紡希に指摘されて初めて気づいたのだが、俺は結愛の分の鮭の切り身を焼いてしまっていた。そういえば、炊いた米も三人分だ。
「シンにぃ~、そんなに意識してるならもう結婚するしかないんじゃない?」
紡希は俺の手を掴んでぐるぐる回し、その場で踊りだしそうな勢いだ。
紡希としては、どうしても結愛には『姉』になってほしいのだろう。
「最近の紡希はよく発想を飛躍させるな」
俺は恥ずかしい思いを振り切るように、熟練の中華料理人みたいな勢いでフライパンを振るのだった。
★
紡希と2人での夕食になる。
特に見たい番組があるわけではないが、いつもどおりテレビはつけっぱなしだ。
人気の芸人やタレントがアウトドアに挑むバラエティをぼんやりと眺めていると、速報のテロップが流れた。
俺が住む街とはまったく関係ない場所で起きた事件の犯人が逮捕されたという内容だった。
普段なら何気なく読み流してしまう内容だが、今日ここにはいない結愛のことを気にして落ち着かない気分になる。
MINEで連絡を取ることもできるのだが、友達と遊んでいる時にメッセージを送りつけるのも迷惑だろうし、だいたい、『全然関係ないニュースで結愛が心配になっから』なんて、理由として恥ずかしすぎる。
「シンにぃ、やっぱり寂しいよね。今日は結愛さんいないもんね」
紡希が言った。
「これは次、結愛さんが来た時、ちゅーだけじゃ済まなくなるパターンなのでは?」
「そんなパターンはないし、変な想像するのもやめなさい」
紡希はしれっとした顔で言うので、俺だけ恥ずかしがっているようになってしまう。
2人だけの夕食を終え、食器を洗っているとインターホンが鳴った。
モニターに映る人物を目にして、なんだぁこんな時間に、と思いながら玄関へ向かう。
「シンにぃがすっごくご機嫌……シンにぃ、お願いが通じてよかったね」
ソファでスマホをいじっていた紡希が言うのだが、何のことやら、だ。
解錠して玄関の扉を開くと、立っていたのは結愛だった。
結愛のいつもと変わらない姿を目にした時、焦りに似た気持ちがすっと霧散した気がした。
「鍵持ってるんだから、自分で開けて入ってくればいいだろ」
「めっちゃ冷たいけど顔笑ってるよね?」
「笑ってないって! テキトーなこと言うなって!」
顔の筋肉に何ら刺激を感じないのだが、自分でもわかってしまうくらい声が弾んでいた。これは恥ずかしい……。
「ちょっと忘れ物しちゃったから、来ちゃった」
「忘れ物?」
不思議なこともあるものだ、と思ったのだが、結愛は頻繁に我が家へ来るから何かしら私物を忘れていたっておかしくはない。
何を探しているのか知らないが、友達と遊んだあとにわざわざうちに取りに来るくらいなのだから、よほど大事なものなのだろう。
「立ってないで入れよ。何を忘れたんだ? よければ手伝――」
言い終える前に、俺は真正面から結愛の両腕で絡め取られていた。
俺は言葉を失う。
結愛は俺の胸元に鼻先を押し付けるだけで、何も言わなかった。
夏場のせいで蒸しているから、薄手の黒いカットソー一枚の結愛とTシャツ一枚の俺が密着していると、ほんのり滲む体温が合わさってお互いの境界がわからなくなりそうになる。より結愛を身近に感じてしまい、俺の心臓はハードワークを初めてしまった。
「これで……よし」
ほんのり顔を上気させて、結愛が俺から離れる。
「……何がよしなんだよ?」
「私がいなくて落ち込んじゃってたんでしょ?」
「な、なんのことだ?」
「紡希ちゃんがわざわざMINEくれてさー、慎治がめっちゃ寂しがってるって教えてくれたんだよね」
紡希のヤツ……やたらスマホいじってるなと思ったらそんな告げ口を……。
「そんな慎治のこと想像したらなんかきゅんきゅんしちゃってー、顔見たくなってここまで飛んできちゃったってわけ」
「ご苦労なことだな。で、忘れ物は?」
「あー、それならもう大丈夫。また明日ね!」
そう言うと同時、結愛は栗色の髪をなびかせて出て行ってしまった。
「……まさか、あれが?」
結愛もまた、俺に会えないのを心残りに思ってくれたということだろうか?
「……いや、ぼーっとしてる場合じゃないだろ」
俺は、ちょっと出かけてくるから鍵閉めといてくれ、とリビングの紡希に告げると、自転車を取りに向かう。
うちの周辺は治安がいいものの、結愛を一人で帰すのはどんな時だって気が引けるというもの。何しろあいつは目立つし、変なところで押しが弱い時があるからな。
自転車を漕ぐ脚が熱を持つ前に、結愛の後ろ姿を見つけた。
もはやすっかり見慣れた栗色の長い髪が、自転車のライトに照らされて明るく映える。
ここにきて、『忘れ物』の件を強烈に思い出してしまう。
まだ結愛の感触は体に残っているし、結愛の前でみっともなく動揺したり赤面したりする可能性は十分にある。どうも俺は、結愛と体が触れるたびに新鮮な刺激を得てしまうらしい。リア充みたいに気軽に女子の体に触れられる領域にたどり着くにはまだまだ遠いみたいだ。
それでも俺は。
カッコ悪い姿を晒すことになろうとも、もう少し結愛と話したかったのだ。
結愛の背中がゆっくりと近づく最中、俺は何を話そうか考える。
「――おい、結愛」
結愛が振り返る。
まるで、俺が来るのがわかっていたような確信的な笑みを前にすると、話題を探してあれこれ頭を巡らせていたことが馬鹿らしくなる。
「駅まで送ってやるから、乗ってけ」
結愛がいてくれれば、俺は何だっていいのかもしれない。
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