3.アラサー女は誘われる

 失意の中で帰郷した実菜は3ヶ月程実家に戻って療養し、気候が暖かくなるにつれて次第に元気を取り戻していった。煩わしい人間関係や、分単位で決められていた緊張感のあるスケジュールをこなす日々から解放されたことが良かったのだろう。


 現在は職業案内所で紹介してもらった薬品卸しの会社で事務職として勤務している。最初は経験の無い仕事に就くことに不安を抱えていたが、年齢層の高い穏やかな雰囲気の職場だったのですぐに馴染むことができた。


 転職先が決まってから徳島市内に家を借りて一人暮らしを始めた。もっぱら会社と自宅を往復するだけの日々で大阪にいた時のような刺激は無いが、時間的にも精神的にも余裕ある生活を送ることが出来ている。



「ねぇ、永松さん。8月12日って予定ある?」



 会計ソフトに領収書データを打ち込んでいた実菜は背後から声を掛けられ手を止めた。ゆっくりと後ろを振り返ると同じ部署で一つ上の先輩である山中里穂やまなか りほがニコニコした笑みを浮かべて立っている。


 ちらりと上司の机を見ると離席中だった。どうやら煙草休憩で席を立っている時間帯を狙って声を掛けてきたらしい。



「私は出勤の予定です。休んで頂いて大丈夫ですよ」



 お盆休みの交渉かな? と思って笑顔で応じる。入社したばかりの実菜にはまだ有給を取得する権利が無い為、気にせず休みをとってもらって構わないのだが……もしかして休暇中の業務割り当てについての話だろうか? だとしたら回答を間違えてしまったなと少し焦りながら里穂を見つめると、彼女は慌てたように首を左右に振った。



「あ、ごめん。聞き方が悪かった。8月12日の夜って予定ある?」


「?? 仕事が終わってからの予定はないですけど……?」



 実菜の答えを聞いた里穂はパッと顔を輝かせて、胸の前で手を打った。



「やった! じゃぁさ、一緒に阿波踊りに行かん?」



 嬉々として告げられた言葉に、自分の口がぽかんと開いてくのが分かった。聞けば、里穂の彼氏が企業連で踊るのを見に行きたいのだと言う。さすがに一人では行きづらいので、職場で歳の近い実菜を誘おうと思ったらしい。



 阿波踊りなんて大学以来だわ……。



 就職するまでは毎年欠かさず行っていたのに、いつの間にやら阿波踊りのない夏が当たり前になっていた。


 前職でもお盆休みは率先して周りに譲っていたため、この時期に帰省することが無かったのだ。今年もおそらく現地に行くことはせず、自宅のクーラーの下で涼みながらテレビ中継を見て満足していただろう。


 実菜はぼんやりと学生時代の夏を思い返す。道沿いに立ち並ぶ屋台と視界の隅々まで溢れかえる人、人、人…。辺り一体から聞こえてくる三味線、太鼓、鉦、篠笛などの鳴り物によって奏でられる二拍子の伴奏と「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ……」と続く掛け言葉に乗せられて、自然と身体がぞめきのリズムを刻み出すあの感覚。


 夏の夜の蒸し暑さと踊り子達が発するエネルギーのシナジーが生み出す、蒸せ返るような熱気に包まれ、その空間に立っているだけで心が躍りだすあの高揚感からもう7年近くも離れているのだと驚愕した。



 久しぶりに行ってみたいかも。



 そういえば、戻って来てから全然徳島らしいことをしていないなと実菜は心の中で苦笑う。


 予定も無いことだしせっかくのお誘いを無下にする必要はないだろう。里穂の誘われて少々浮立っていることも自覚している。お盆期間は業務量が少ないと聞いているので、残業で遅くなる心配も無さそうだ。



「はい、是非行きたいです」



 微笑みながらそう告げると、里穂がやった! と声をあげて実菜の手を握った。流石に周りからの視線が気になって、慌てて手を引っ込めて自分の唇に人差し指を当てると里穂は恥ずかしそうに「ごめんごめん」と頭を掻いて声を潜めた。


 里穂から当日の集合場所と時間を伝えられ、すぐにスマホのカレンダーに入力する。久々に仕事以外の予定が埋まったことに口元が緩んだ。


 阿波踊りこれを楽しみに暫くは頑張れそうだ。いそいそと自分の席に戻る里穂を見送った実菜は、緩む表情を引き締め、気合を入れ直して再びパソコンへと向き合うのだった。




ーーーーー


◆用語解説

鳴り物なりもの… 阿波おどりの伴奏を務める楽器または奏者。遠くまで音が通る鉦が指揮者役で、軽快なリズムを叩き出す締太鼓と腹の底に響く大太鼓の低音が踊り手の心を弾ませる。


掛け言葉…踊りながらリズミカルに発せられる言葉。よしこの節の間の手や囃子言葉が取り入れられたものもある。

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