守りたいもの

 和真が沙樹の部屋を去った後、夕方6時少し過ぎ。

「ただいま」

 ガチャリと玄関が開き、聴き慣れた女性の声がした。母親がパートの仕事から帰宅したようだ。

「おかえり」

 キッチンで夕食の支度をしながら、沙樹が答える声がする。

 ハムスターの聴力は抜群だ。ドアが閉まっていても、部屋を出てすぐの場所にあるキッチンの物音や声は綺麗に拾うことができる。

「体調、大丈夫だった? 母さん」

「大丈夫よ。家の中にこもり切りになるよりも、体動かしたり誰かと会話したりの方が精神的にもいいみたいだし」

 ダイニングの椅子を引く音と、母の話し声がする。その声のトーンは穏やかだが、微かに仕事の疲れを感じさせる。

「母さん、無理してない?」

「うん、怠さでちょっときつい時もあるけど、仕事もだいぶ慣れたわ。周囲の人たちがみんな優しいから」

「あそこの雑貨屋さん、スタッフさんもみんないい雰囲気だよね。いいパート先が見つかってよかった。

 母さんも、麦茶飲む?」

「うん。ありがとう」

 キッチンの水音が止まり、椅子が引かれる音がする。沙樹もダイニングに座ったのだろう。


「……ねえ。

 沙樹も、何か今日は少し疲れているように見えるけど……気のせい?」

「え? ううん、全然」

 先ほど和真が部屋に来て話して行ったことが、沙樹の心に重く響いているのではないだろうか。

 母の前で、表情を明るく切り替えようとする沙樹の様子が目に浮かんだ。

「——むしろ、最近自分の気持ちが元気だなって感じる。

 ボタンが来てくれてから、なんだか心強い味方がいつもそばにいてくれる気がして、すごく嬉しいの」

「……そう。よかったわね。

 ボタン、本当に昔のボタンと似てるね。模様も、可愛らしい瞳も。

 でも、夜の間ボタンが動き回る音は、やっぱり私には無理だと思う……

 そして、ボタンの姿を見る度に、何の悲しみもなかった頃のことが全部蘇ってきて……たまらなく苦しくなってしまう。

 ごめんね。ボタンも家族の一員なのに、可愛がってあげられなくて」

「気にしないで。だってそういう約束で、母さんに無理言って飼ったんだから。ボタンの愛は私が独り占めするの。ふふっ」

 重くなりかけた空気を掻き消すように、沙樹が悪戯っぽく笑う。

 彼女は人間、俺はハムスター。そんなことは知っている。なのに、彼女の甘い言葉に思わず心臓がどきりと跳ねる。

 もちろんだ。俺の愛は、君だけのものだ。


「よし、じゃあ夕食の支度再開しよっかな。できたら呼ぶから、母さんはゆっくりしてて。今日は冷奴と肉じゃがにするね、あ、それとスーパーで新鮮な枝豆見つけたの」

「わ、美味しそう。夏はそういうシンプルな和食が一番美味しい気がするわね」

 椅子から立ち上がる音と、やがて再び水音が始まった。


 沙樹も母親も、こうして精一杯日々を生きている。

 そして、それぞれにいろいろなものを抱えながら、日々の幸せを大切に守ろうとしている。

 これを、誰かに呆気なく奪われ、壊されるとしたら——

 そんなことは、させない。絶対に。


 前世で誓った決意が、再びはっきりと心に蘇った気がして、俺は餌入れの中の乾燥ニンジンを強く噛みしめた。





 それから数日後の夕方。

 部屋に、昴がやってきた。


「これ持ってきた」

 廊下を歩きながら、昴が何かを沙樹に渡しているようだ。

「え? わー、ウッドチップ!? これあると助かるんだよねー」

「うん、沙樹の使ってるの、この商品だったよな?」

 部屋のドアを開け、沙樹が袋を手にして嬉しそうな笑顔で入ってくる。その後ろから、ちょっと照れたような昴が頬をポリポリ掻きながら入ってきた。

「……あれ、唯はまだ来てないのか?」

「え? 今日、唯は都合悪くなったんでしょ? 昴によろしくーってさっきメッセージもらったけど?」


「…………」

 沙樹のその言葉を聞いて、昴は一瞬呆然とした顔になり、次の瞬間顔を真っ赤にして頭を抱えた。

「おい、聞いてねえぞ……!!!

 今日は4時に沙樹の家に現地集合しようって言ったのあいつじゃねえか……!!

 ご、ごめん、俺一人で沙樹の部屋来るつもりとか全然なくて、その……!!」

「なんか、唯にはめられた感じだね」

 沙樹はクスッと笑い、昴を見た。

「いいじゃない、そんな気にしなくたって。ボタンの遊び相手してやってよ」

「…………」

「ほらほら、座って!」

「……ん、じゃ……」

 沙樹の可愛い押しの強さに、昴はまだドギマギとした空気を放出したままクッションにもぞっと座った。

「ボタン、一緒に遊ぼー。おいで」

 カラーボックスの上にあるケージに歩み寄り、沙樹が入り口を開けて優しく手を差し出してくれる。

 部屋の空気には、いつもの沙樹の匂いと、昴の匂いだけだ。

 それをしっかり確認してから、俺は沙樹の掌にもふっと身体を預けた。

「昴くん、ひまわりの種、ボタンにあげてみて。その棚にある箱、取ってくれる?」

「ん」

 箱から取り出したひまわりの種を、昴が一粒摘んで俺の前に優しく差し出した。

 沙樹の手の上から少し身を乗り出し、俺は種の匂いと昴の指の匂いをふんふんと吸い込む。

 前世では、何度かこいつの掌にも乗って遊んだ記憶がある。大丈夫なのはわかっているが、ここは新参者らしき演技が大事だ。やっと警戒が解けたというような顔を作って、その指先から種を受け取った。

 殻を破り、甘くて美味しい身をもぐもぐと夢中で頬張る。この瞬間ばかりはハムスターの本能丸出しだ。

「ふふふ、美味しい物食べる目がめっちゃ真剣〜!」

「きゅ、きゅ」

「ん、美味しいの? よかったね」

 俺が種を味わい終えた頃を見計らって、沙樹が昴に小さく言った。

「昴くん、ボタンの背中、撫でてやって」

「え……大丈夫?」

「うん、きっと大丈夫」

 昴の指が、俺の背中にそっと触れ、背筋に沿って優しく撫でる。

 こいつの心の温かさがそのまま伝わるような心地よさに包まれ、気づけば体の筋肉がゆるりと緩む。

「昴くん。ボタン、あなたのことすごい好きみたいだよ」

「え、まじ!?」

 昴が再びボッと顔を赤くしている。本当にわかりやすいやつだ。

 何を考えているかわからないあの男とは、天と地ほども違う。

「うん。すごく気持ちよさそう。

 その人の優しさとか温かさが、動物にはよくわかるんだよね」

 俺を撫でるゴツい指先を見つめながら、沙樹がふっと微笑んだ。

 小さなその吐息が、一瞬微かに震えた気がして——俺は思わず顔を上げ、沙樹の瞳をじっと覗き込んだ。


「沙樹?

 ——どうした?」

「ん、なんでもないよ。全然」


 俺と同じように沙樹の表情を見つめる昴の問いかけを、沙樹は明るく笑って否定した。



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