18 特別な日
「雫君、お待たせ」
家のドアが開き、準備が整った様子の私の妻──咲百合が出て来た。
「ふふ、今日も可愛らしいですね」
「えっ、もう、からかわないでよ……」
私が正直に伝えると、咲百合は照れたようにはにかむ。その姿も大層愛らしかった。本当に、私は幸せ者だ。高校生の頃から好きだった女性と、一つ屋根の下、一緒に暮らしているなんて。これ程の幸せが、あって良いのでしょうか? もしかして、これは都合の良い夢なのでは、などと、同棲を始めた当時は何度思ったことか。
そういえば、一年前の今日も、全く同じことを思った。
「さぁ、行きましょうか。今日は特別な日ですからね。楽しみましょう」
「うん」
今日は私たち夫婦の、一回目の結婚記念日だ。そのお祝いということで、今日はお出掛けをすることになった。私は遠出しても良いと思っていたけれど、咲百合が「近場で大丈夫だよ」と言ったので、近場を歩くことにした。私は、咲百合が嬉しい気持ちになれるのならば、それに越したことはないのだ。
「さて、まずはカフェ、ですかね?」
「そうだね。欲しい限定フレーバーがあるの。付き合ってくれる?」
「勿論。咲百合の頼みとあらば、応えない手はありません」
今日は、咲百合のお願いには何でも応えるつもりで臨んでいる。いや、『今日は』というより、基本的に私は二十四時間三百六十五日その心持ちだ。例えば、咲百合に突然「三点倒立しながら剣玉をやって」と言われたとしても、その成功のためには決して努力を惜しまない……流石に、それは了承しかねますかね。そもそも、咲百合はそんな無茶を振ってくるような人ではありませんし。例えは例えです。
「ねぇ、雫君」
「えっ? はい、何か」
カフェへ向かって歩いていると、ふと咲百合に話しかけられた。
「この辺って、近場だけどあまり行かないよね」
「確かに。近い場所だと、却って来ませんよね」
「うん。でも、前にも回ったことあるの、覚えてる? 付き合う前だから、随分昔だけど」
「あぁ、その話ですか」
無論、片時も忘れたことはない。忘れるはずがない。
高校時代、『学校帰りの寄り道』という名目で、私が咲百合を誘って、まさにこの辺のカフェやらショッピングモールやらを回ったのだ。
本当に、あの頃の自分は、とんでもない大博打に出たものだ。咲百合は昔から優しかったのでよかったものの、下手したら嫌われかねなかった。若気の至り、というやつですかね。
「あの頃と比べると、ここもすっかり変わっちゃったよね」
「まぁ、十年以上経っていますからね。街並みが変わってゆくのも、仕方のないことでしょう」
時代は移ろいゆくもの。十年前はあった場所が更地になっていたり、逆に更地だった場所に商業施設が建てられていたりする。風景も、世間の風潮も変わる。十年もあれば、十分すぎる期間だ。
「それが、どうかしたのですか」
「ううん、何でもない。ただ、懐かしいなぁって思っただけだよ」
「懐かしい、ですか」
同感である。私も、その日を思い出しては、ノスタルジーな気持ちに浸っている。
「ふふ、そうですね」
確か、今向かっているカフェも、当時赴いた場所だ。
そのまま、談笑しながら歩いていると、お目当てのカフェが見つかった。やはり、多くの人が列を成している。
「並んでるね……」
「私が並びますね。咲百合は席を」
「そんな、いいの?」
「たまには頼ってくださいよ」
「じゃあ、甘えちゃおうかな。ありがとう」
十五分程並んだところで、漸く限定フレーバーを手に入れた。私の後ろにも沢山人が並んでいたので、買うのは咲百合の分のみにし、私はブラックコーヒーを注文した。
テラス席に座っている咲百合のもとへ向かう。
「お待たせしました」
「……! 本当にありがとう!」
咲百合の前に限定フレーバーを置くと、咲百合の顔がぱあっと明るくなった。それに釣られ、私も思わず笑顔になる。
「嬉しそうですね」
「当たり前だよ。ずっと飲んでみたかったんだもの。雫君はよかったの?」
「他にも欲しがっている方がいますからね。私などが頼む訳には」
「そっかぁ。やっぱり優しいね」
「そう、ですか?」
咲百合に限らず、周囲からよく言われる言葉。自分よりも他人に配慮すること、私にとっては幼少期からの常識だが、世間ではそれを〝優しさ〟と呼ぶらしい。
「それじゃあ、いただきます」
しっかりと挨拶をして、限定フレーバーを手に取る咲百合。私も飲み始める。
「……美味しい! 来てよかった~!」
心から幸福そうな表情だ。
「雫君も飲んでみる?」
「え、うーん……お気持ちだけ頂きます。糖分はなるべく控えたいもので」
「それなら大丈夫だよ。これ、糖分も甘さも控えめみたいだし。雫君にも飲んでみてほしいの。お願い?」
「うっ……」
……こういう言われ方には、めっぽう弱い。『お願い』と言われてしまうと、庇護欲に駆り立てられ、快諾せざるを得ない状態になってしまう。とは言っても、今断る理由はない。
「……では、少しだけ」
咲百合から手渡され、ストローに口を付け、吸う。無駄に甘ったるそうな見た目とは違う、程よく心地よい甘さが、私の口の中を包み込んだ。
「美味しい……!」
「でしょ?」
確かにこれは、並んでまで手にしたくなるのも納得ですね。
懐かしの場所なので、話題も自ずと学生時代のことに。
「あのときは本当に驚いちゃったよ。雫君からいきなり誘われて」
「あ、ですよね……」
過去の自分を思い浮かべ、苦笑する。当時の自分はあまりにも青臭くて、妙に積極的だった。仲は良い方だったとはいえ、クラスのマドンナで、まさに高嶺の花であった咲百合をデート(実質)に誘うだなんて、身の程知らずも甚だしい。しかし、そのお陰で今があるのかもしれないと考えると、当時の自分に感謝せざるを得ない。
「そんな顔しないで。迷惑なんて全然思ってなかったから」
「なら良かったのですが……」
「寧ろ、その……嬉しかったし」
「え」
嬉しかった? 初耳だ。
咲百合は慌てて続ける。
「と、友達から遊びに誘われるなんて滅多になかったから! 何だか、普通の学生みたいだなぁって……」
「あ、あぁ! なるほど、そういうことですか」
咲百合は所謂〝箱入り娘〟で、なかなか周囲の人と同じような生活が出来なかったらしく、学生時代から『普通の生活』に憧れを抱いていた。私も似た境遇を味わったことがあったので、その気持ちに大変共感出来た。彼女に惹かれた要因の一つだ。
「雫君のお陰だよ、こういう生活が出来るようになれたの」
「私は咲百合のサポートをしただけですよ。私の方こそ、咲百合にお礼を言いたいくらいです」
私のお節介にあれだけ付き合ってくれた。感謝してもしきれない。
「単純に疑問なのですが、何故私にあそこまで?」
「……私は、雫君に助けられたから」
「……あぁ」
咲百合の両親は、咲百合に対して過保護、を通り越して過干渉気味だった。これも学生時代、咲百合の人間関係にあれこれと口出しをしている様子を、偶然目撃したことがある。私は、聞いているうちに我慢ならなくなり、つい間に割って入ってしまった。
それを機に、咲百合の両親はだいぶ丸くなり、現在では、咲百合とも私とも良い関係を築けている。だから、咲百合にとっては『助けられた』だ。
あまり長居をするのは良くないので、飲み終えたところでカフェを後にする。次の目的地は、ここの地域では一番広い通り。様々なブランドや飲食店が並んでいる。そこを巡りたい、という咲百合からの要望に応えた。
「なかなか、全部を回る機会ってないんだよね。前からそうしたいとは思ってたんだけど」
「あそこは大きいですからね。全部回るには、かなりの時間を要しますよ」
「うん……」
「……? どうされましたか?」
何故か、私の顔をまじまじと見つめてくる咲百合。何か、おかしなところでもあるのでしょうか。
と、私に身を寄せてきて、背比べをするときのような仕草をしてきた。
「大きいと言えば、雫君もだよね。昔からそうだったけれど、更に大きくなってるんじゃない?」
「それは、確かに。そんな気もします」
身長の話でしたか。しかし……この体勢だと、咲百合の大きい部分も目立つ。
「……お互い様だと思いますが」
「え? 私は全然伸びてないよ」
「い、いや、身長ではなくてですね……」
視線の先には、咲百合の……その……今にも私の胴に当たりそうな、大きく膨らんだ胸部が……。
やけに気恥ずかしくなり、咳払いする。それで、咲百合もハッとした様子で視線を下に向け、自身の豊かなそれを腕で覆い隠した。顔を赤くしながら、頬を膨らませている。そんな咲百合も可愛いと思ってしまう、呑気な私だ。
「……雫君のばか」
「あ、あの、これはほんの冗談でして……いえ冗談でもありませんが……」
しどろもどろになりつつ言い訳をする。三十路も間近な男が、思春期男子のようになってしまった。咲百合と接していると、学生時代の自分に戻ってしまう瞬間が、未だに多々ある。もしかして一生このままなのか。
「もう……! 買い物に付き合ってくれないと許さないから!」
そう言い放ち、スタスタと先へ行く咲百合。すぐさま慌てて追いかける。
「それは喜んで付き合いますが……待ってください! 一緒に歩きましょう? ね?」
✴
私たちは大通りに着き、現在、そこの沿いに建っている一つのブティックにいる。私は、何が咲百合に似合うのかを、本人に頼まれ見定めている。が……。
「このワンピース、可愛い……! あ、これも良いかも! 雫君はどっちが良いと思う?」
咲百合は、何でも似合っているし、何を着ても可愛い……! だから、どっちが良いかと聞かれても……!
「はぁ~……」
「え、どうしたの?」
「いえ……」
愛らしすぎて、つい大きな溜息が出てしまった。こういう感情は、確か……〝尊い〟と言うのでしたね。要君が言っていました。
「ただ、咲百合が尊すぎたもので……」
「へっ!? あ、ありがとう……」
そうは言っても、咲百合の期待には応えたい。
「えっと、どちらが私の好みか、という話でしたね。強いて言うなら、右の方でしょうか」
「うん。可愛いよね。それじゃあ、ワンピースはこっちにしようかな」
ワンピースを買い物かごに入れる咲百合。だが、他にも買いたいものがあるらしい。
「う~ん……このジーンズも欲しいけれど、少し高いし、我慢かな」
「私が出しますよ。あるうちに買っておいた方が良いでしょう」
「気持ちは嬉しいけど、大丈夫。雫君、私の誕生日にも同じことするじゃない」
数日後に、咲百合の誕生日がある。その日にも、どこかへ出掛けようと考えている。行き先等は咲百合の希望次第だが、今日と同じく充実したスケジュールにしたい。
「それはそうですが……。あ、なら折半にしましょう。八割程私が負担します」
「折半って言うのかな、それ……。私としては、普通に半分ずつが良いよ」
「まぁ、咲百合がそれで良いなら」
買い物を済ませ、ブティックを後にする。お目当てのものは全て買えたらしい。咲百合も大変ご満悦といった様子だ。
「他に行きたいところはありますか?」
「えっとね、新しい靴も買いたいかなぁ」
「では、あのお店に行きましょうか」
「うん」
✳
帰り道。
「今日は楽しかった~! 雫君、付き合ってもらってありがとね」
「お礼なんて、咲百合がご満足いただけたなら。しかし、疲れていませんか?」
今日はほぼずっと歩いていたし、出発時には綺麗な青色だった空は、今ではうっすらと赤みを帯びている。時間が経った証拠だ。
「ふふ、確かに、それはそうかもね。でもそんなの、雫君が全部掻き消してくれた」
「……!」
咲百合はそう告げると、子犬のように大きな瞳をこちらに向け、微笑んだ。その姿は、いつにも増して輝いて見えた。
──あぁ、本当に、私は幸せ者だ。
この幸せを、いつまでも、いつまでも、噛み締めていきたい。
「はは、そういう殺し文句、どこで覚えてくるんですか」
「へ? どこでって言われても、普通に頭に浮かんだだけだし……」
「それじゃあ、咲百合は究極の天然たらしですね」
「もう、何それ。雫君だって人のこと言えないでしょ?」
私たちは一転し、冗談を言い合う。これも幸福な時間だ。
改めて、咲百合の姿を俯瞰する。見れば見る程、私には勿体ないぐらいの美貌を持っていると実感する。スタイルも良いし、非の打ち所がない。
……ん? 髪にゴミが付いていますね。取ってあげましょうか。
「咲百──」
話しかけようとしたところ、私の脳内に悪い考えが浮かんだ。時折、咲百合に対して意地悪な感情を抱く。いつからこうなったのだろう。少なくとも、出会ったばかりの頃はこんなことを思う私ではなかった。まぁ、今そんなことはどうでも良い。
──少しだけ、悪戯しましょうか。
「……え? 雫君、どうかしたの?」
じっと、咲百合の顔を見つめる。そしてそのまま、咲百合の身体を抱き寄せた。
「えっ、ちょっと……」
当惑している様子で、私の顔を見つめ返す咲百合。その顔色は、仄かに紅潮していた。それを見た私の心は、更に昂った。
「ま、待ってよ、こんな人前で……」
「それじゃあ、あそこの裏路地に行きますか。あそこなら、誰もいないでしょうし。ね?」
自分が今から何をされるのか、大方予想がついたらしき咲百合は、私の言葉に可愛らしく頷いた。
『あそこの裏路地』とは、公道が渋滞している際によく使われる道のことで、私も数回使ったことがある。先程咲百合に言った通り、歩行者は滅多にいない。私は数回の内一度も目にしていない。
そこに入り互いに向き合う形になると、咲百合は恥ずかしそうに俯いて、小鳥のようなか細い声で。
「出来るだけ、早く終わらせてね……」
「……善処します」
一言だけ返すと、私は咲百合の顔に手を伸ばす。咲百合がギュッと目を瞑った瞬間──髪に付いていたゴミを取った。
「はい、取れましたよ」
私が明るいトーンで伝えると、咲百合は「えっ?」と漏らして、きょとんと目を見開いた。戸惑いながら、続け様に問う。
「ど、どういうこと?」
「どういうことも何も、咲百合の綺麗な髪にゴミが付いていたので」
平然とそう返す私。すると、咲百合の顔色はまた、恐らく先程とは別の理由で、みるみる赤くなった。
「~~~~っ! もう! からかわないでってば!!」
「すみません、つい……ふふっ」
形式的に謝ったが、堪えきれず笑ってしまった。咲百合に「本当に反省してるの?」と訝しげな視線を向けられた。なのに依然として、笑いは止まらなかった。我ながら性格が悪い。
「……ふふっ、もう、だから笑わないでよ」
そんな私につられて、咲百合も笑い始めた。
裏路地を出て、帰宅の途に就こうとする。と、不意に後ろから車のエンジン音が聞こえた。反射的に振り返ると、一台の普通車が裏路地へ入っていくのが見えた。
……あれ? あの車は確か……。
「雫君?」
「あの車、見覚えがあります。私の同僚の車です」
「それってもしかして、雫君がよく話してる、春樹先生?」
「そうです。折角ですし、挨拶しておきましょうか」
再度裏路地に入り、春樹先生のものらしき車を追う。と言っても、極めて徐行運転だったので、追うと言うより運転席側に回り込んで、目の前の窓を軽く叩いた。
春樹先生は眼前に私を捉えると、大層たまげた様子で窓を開けた。そのすぐ、春樹先生の方から切り出した。
「こんにちは、偶然ですね」
「こんにちは。急に声を掛けてしまい……」
そこから数分にも満たない間、春樹先生と取り留めのない世間話をした。咲百合のことを紹介し、互いに今日の出来事を言い合った。特筆すべき内容はそれくらいか。
別れる際、裏路地を進み始めた春樹先生に咲百合が声を掛けた。
「あ、あの!」
「えっ、どうかしました?」
「主人と仲良くしてくださってありがとうございます。これからもよろしくお願いします。ごめんなさい、これだけどうしても言いたくて」
「あっ……はい!」
返事をした春樹先生は、そのまま裏路地に消えていった。
「あの人が春樹先生か。良い人そうだね」
「よく出来た方ですよ。いつも生徒たちを第一に考えている。私よりもずっと良い先生です」
実を言うと、私自身いつか春樹先生に咲百合を紹介したいと考えていた。前々から彼には咲百合のことをよく話していたし、機会があればと思っていたのだが、まさかこんな形で実現するとは。想定外だった。
「そういえば、春樹先生には弟さんがいるんだよね。その子の話もしたりするの?」
「はい、時偶。彼──冬樹君は私たちの生徒でもありますからね。逆に、冬樹君と春樹先生について話すこともあります」
冬樹君の話からは、春樹先生は先生としてだけではなく、一人の兄や人間としても素晴らしい方であることが伺える。そんな兄を心から慕っていることも。春樹先生の話からも、冬樹君への愛をひしひしと感じる。仲良し兄弟とは、まさにこのことを言うのだろう。
で……。
「話は変わりますが、裏路地で鉢合わせたとなると……下手したら、誤解されたかもしれませんね」
新婚夫婦があんな鼠一匹と通らなそうな裏路地に入っていっただなんて、大抵の大人ならばその二人が何をしようとしていたのか察しがつくだろう。とはいえ、今回の場合は『自分を追って入った』と冷静に考えれば全て辻褄が合う。しかし、私たちの関係を改めて知った春樹先生は〝新婚夫婦〟が裏路地に入っていたという一コマだけが残り、その先入観のみで結論を導き出す可能性がある。まぁ、私の知っている春樹先生はそこまで短絡的な思考ではないし、あくまで可能性の話だが。
そもそも、その切っ掛けを作ったのは私ですしね。
「誤解って……雫君が私を騙したんでしょ?」
まだ少し根に持っているらしき咲百合からも言われた。
「そう言われてしまっては、何も言い返せませんね」
苦笑いで呟いたあと、咲百合に歩み寄って囁いた。
「──でも嬉しかったですよ。期待してくれていたみたいで」
「っ! それはそう、だけど……」
「ご安心ください。家に帰ったらいっぱいしてあげますから」
「な、何言ってるの……! 本当、我儘なんだから……」
口ではこう言っているものの、耳まで真っ赤にして、満更でもなさそうだ。非常に愛くるしい。
さて、と。
来年はどうしようか。どうせなら、今回よりもっと豪華なものにしたい。いやそれより、数日後に控えている咲百合の誕生日について考えねば。行き先は、あそこはどうでしょうか。あそこも捨て難いですが……。
考えを煮詰める程、当日を想像して胸が躍る。こんな気持ちになれる相手と一緒になれて、私は怖いくらい恵まれている。神からの寵愛を受けているのでは? なんて思ってしまう。……それはないか。いるかどうかもわからない存在だ。
仕事柄、毎日帰りは遅いし土日も出勤する場合があり、肉体的にも精神的にも疲弊しきってしまうことが多い。そんな中、咲百合の存在は大変癒やしだ。今日、一生彼女を手放しはしないと、再度誓った。
「……咲百合、来年は何をしましょうか」
「来年? 流石に気が早いよ雫君。でも、うーん……やっぱり、すぐには思い付かないな」
「ですよね。切り出しておいて何ですが、すぐに決める必要もありませんからね」
「その時行きたいところに行こう。あ、あとね、私の誕生日のことなんだけど……」
「おぉ、何か要望がおありで? 聞きましょう」
私たちは、住処に向かいつつ話に花を咲かせる。この幸せが、一秒でも長く続いてくれることを願いながら。
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