第52話

「アオハさま! 退避をッ!」


 凜火りんかの声にハッとした。次の瞬間、

 ──ブヂュッ!!

 生々しい音を立てて、巨大な眼球が水風船のように弾けた。どろどろした液体が、オレたちに向かって降り注いでくる。

 あ。やば、間にあわな……

 不覚にも呆然としてしまったオレは、横合いからの衝撃で現実に引き戻される。

 間一髪、オレは凜火に助け出された。

 穴の中から飛び出し、凜火が距離を取る。クソ、あと少しでシールドを破れたのに……

 突然、ガクン! と凜火の身体が傾いだ。剥き出しの岩肌の上に、凜火が激しく転倒する。すんでの所で凜火はオレを手放し、彼女から数メートル離れた場所にオレは着地した。

「凜火、どうした──、凜火!」

 全身から血の気が引いた。

 凜火の右足を、生っ白い腕が掴んでいた。地面に引き倒された凜火の傍らには、チェーンの千切れたペンダントと刀が転がっている。

「いま助ける!」

 オレが駆け寄った瞬間、凜火を捕らえる腕が膨張する。水泡が分裂するように増殖した肉塊が、一気に彼女の下半身を呑み込んでしまう。

「アオハさま……、申し訳ありません」

「謝るな!」

 凜火を絡め取る肉塊にオレは牙を立てる。そうしている間も、肉塊は増殖し、凜火を呑み込もうとしている。

 クソ、くそ……! 間に合え、間に合えよッ!!

「間に合いません、このままでは、アオハさままで」

「うるさいッ!」

 目の前が涙で滲む。泣いたってどうにもならないのに。もっと急げ! 急げ急げ急げ! 凜火が死ぬぞッ!

 血に飢えた獣のようにオレが喰らい付いても、肉塊は引き下がろうとしない。もう、凜火の胸まで……

「アオハ」

 唐突に、凜火がオレの名を呼んだ。いつもと違う呼ばれ方に呆然とするオレに、凜火は手を突き出した。

 紅色の魔力が、大気を圧縮していく。何を──

 ──ドッ! 解き放たれた大気に、オレの身体が吹き飛ばされた。

「……凜火、お前、なにやって……」

「大丈夫、……そんな顔、しないで……」

 凜火の顔から血の気が引いていく。瞳から紅の光が消えていく。

「大丈夫。だって、わたしは……超一流の戦律師だから」

 立ち上がり、駆け出す。凜火が、オレを見つめて、呟いた。


「キレイ……青くて、海の波みたいな……」


 次の瞬間、凜火は肉塊に呑み込まれた。

 オレは声一つ上げられず、潮が引くように本体へと戻っていく肉塊の前に立ち尽くした。

 凜火が。

 凜火がいなくなってしまった。

 後には、抜き身の刀と、凜火がいつも身に付けていたペンダントだけが残された。

 さっきまで凜火のいた場所に、ふらふらと歩み寄る。ぺたん、と膝をついて、銀色のネックレスを拾い上げる。

 魔力遮断の処理が施された、銀製の容器がチェーンに繋がっている。

 キャップを捻り、開ける。

 手の平に転がり出たものに、オレの息が止まる。

 青銀色の、魔力結晶。

 あの日、あのとき、オレが、「超一流の戦律師」に渡した──

 ずっと、凜火がオレに執着する理由が解らなかった。ただのショタコンかと思ってた。

 デートの最後、凜火は戦律師を目指す理由を、「大切な人を守れなかったから」と言った。

 リンゴ農家のバイトのとき、人に感謝されるのは初めてだと言ったオレの言葉を、凜火は否定した。

 ベッドでペンダントについてオレが訊ねたとき、凜火は昔自分を助けてくれた人からもらったと言った。

 

『わたしの初恋の人、です……』


「──凜火、凜火、凜火……っ!!」

 チェーンを拳に巻き付ける。

 凜火が落とした刀を拾い上げる。オレが扱うには長大すぎる。けど、それがなんだというのだ。

 凜火を呑み込んだ伝説ヘカトンケイル級怪異が絶叫を上げた。繭が破れ、血管が千切れ、一面に血の雨が降り注ぐ。

 無数の顔が、天井を見上げ再び吠えた。あらゆる動物の断末魔を煮詰めた絶叫が、地下空間の天井を一瞬で粉砕した。

 地面が揺れ、空が落ちる。見上げれば、三日月を浮かべた中央縦坑セントラルシャフトが頭上に現れていた。

 伝説級怪異が、解き放たれた。

 不気味なサイレンが鳴り響く、無数のサーチライトが伝説級怪異を照らし出し、機銃弾が降り注ぐ。

 浴びせかけられる特殊弾頭に怯むことなく、伝説級怪異が「立ち上がる」。溶けかけた巨人となった伝説級怪異が、中央縦坑の壁に縋り付く。すると頭部が華のように裂け、赤紫色の魔力光を放つ無数の手足が外界を目指して這い上がる。

 外界を目指す伝説ヘカトンケイル級怪異に、オレは——


「……凜火を、」


 赤黒い血河に、溢れ出した青銀色の魔力が波紋を打った。


「凜火を、返せ……ッ!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る