第83話 月への奏上
最早、月の眼中にはただその神一柱より他になかった。
向かい合う月と角の大蛇。圧倒的な存在たる二柱に挟まれた、その小さな小さな一柱より他に。
『我は……我は、貴台の眷属にございます。ヤトのにはございませぬ』
ウェイの神は言葉を紡ぐ。
その”声”は、月より降り注ぐ大いなる神気の前に苦しげなれど、確かに芯を持ちて、最早震えはなかった。
『されど、我はこれの兄にございます。この雲の地を彷徨う視線を見て、我がこの神を弟としたのです。全て、我の意思。――ヤトは、我が弟にございます!』
月より放たれし氷結に、結界の奥の末弟の様子が図り知れなくなった時、ウェイの神はいてもたってもいられなくなって、業火の男神を仰ぎ見た。
『西の男神よ、頼む。我を上まで飛ばしてくれ』
傍らにあった男神はとても嫌な顔をした。
居合わせてから何となく近くにありつづけたのが、こう出たかと。
『何故そンなことを吾がせねばならン』
『頼む。其方しかおらぬのだ』
見上げるウェイの神に、傍に控えていた、業火の男神の荒くれ眷族共の野次がとんだ。それに返すはウェイの神側、
辺りはとたんに火花が散って騒がしくなった。
けれども、回りなど眼中にない様子の二柱だけは、ぴりりとした緊張感の中にあった。
『……行って、何が出来る』
『ヤトの所へ行きたいのだ』
『その
橙の炎を逆立てた髪に灯し、業火の男神は凄んだ。
すると、びくりと体を震わせたウェイの神は、けれども口をつぐむことをせず、俯きがちにぽつりと言った。
『……奏上、申す』
『あ……?』
いぶかし気に眉をひそめる業火の男神。
しかして、おもむろに顔を上げたウェイの神は、その燃え盛る炎の眼を真正面から見据えて告げた。
『御月様に、奏上申し上げる!!』
初めて見る、彼の神の決した眦の力強さに、業火の男神の燃ゆる髪が一度大きく揺らいだ。
ここで屈することは許せぬと憤怒の面持ちを保とうとすれど、珍しく奮起する目の前の神は見事に食らいつき、きっと男神を睨み上げた。
しかして込められた決意の強さに、彼の神の乱れた神力が、その瞳を本来の色に変えた時。ついにぞ業火の男神は折れた。
『――ああッ、糞! 今回はやってやる! だが今回だけだかンな。二度とはせンぞ。よぉく、その綿の詰まった頭に命じておけ!』
『まことか! 礼を申す! ……しかし西殿、こんな事態はもう二度は訪れぬと思うぞ』
『五月蝿いわ、この
『す、すまぬ……』
さて、こうして業火の男神は、ウェイの神を俵のごとく肩に担ぎ上げると、騒ぎたてる双方の取り巻きを蹴散らし、足に炎を灯して、二柱で結界の壁を越える高さにまで上昇した。
さる折りに、あの異質の黒き神の眷族とかいう黒手毬のごときちんちくりんを、去り際にウェイの神から手渡された業火の男神は、怒りながらもそれを手に鷲掴み、神妙な面持ちで場を伺うのだった。
月は、ただ小さきものの奏上をじいと見ていた。その心の内に何を思うかは、彼のみぞ知る。
しかし、御身の周りを包む、またこの場を支配する神気に妙なうねりが生まれたように感じるは、角の大蛇の思い違いか否か。
『貴台よ。驚かれることと存じますが、このヤトは、ほんの少し前までは下界に生きる人の子であったのです。一見、こ奴の身はおぞましきモノに見えれど、実のところ、その核は実に愉快で馬鹿な人の子なのでございます』
吹き付ける三貴子が一柱の、絶大なる気に真向から立ち向かい、ウェイの神は言葉を紡ぐ。
月の神気に当てられ、当にみずらの解けて荒ぶる風になびく黒髪が、根元から真白の色に変わっていった。
『それがこの短き間に、こうも多くの神々と渡り合ってきたのです。我はこれの兄として、天晴の称賛が送りたいと、そう思っております』
いつの間にか、月の鏡に込められし力の結晶はただ輝くばかりとなって、その圧を失いさせつつあった。しかし、無我夢中のウェイの神は、それに気づかず尚も奏す。その頭の頂きからは、気の乱れからか、彼の本性たる獣の耳が飛び出していた。
だんだんと背筋が伸び、胸も開いてきたところで、この神は腰に手を当て堂々と言い放った。
『それに、もしこの神が自らを無くし、その祟る身が勝手に動き出そうとも、必ずや止めて見せましょう!! ――ここにおりまする業火の男神が!!』
『吾が止めるのか』
唐突に指まで差されてふっかけられた業火の男神は、目を白黒させながら思わずこぼす。
このあまりにも常軌を逸した現場に、まさか自分が巻き込まれることになろうとは、つゆほども思っていなかったのだ。
固まってしまった業火の男神を差し置いて、いつもの調子を取り戻しつつあるウェイの神は、尚も言う。
『貴台よ、聞し召し給え。ここに居りまする西の渓谷を鎮守する男神は、此度の災禍に少しばかりおかしくなった我が弟を、見事に元の様に戻して見せたのでございます。それはこの場に集いし、数多神々の見るところにもございます――そうでしょう、皆々様方!!』
結界の向こうにある神々をも巻き込んで問えば、どよめいた神々が、次々に肯定の意を指し示す。中には、その場にいなかった神々に、詳細に何があったか話して聞かせる者もいた。
その様子に、ウェイの神は思わず笑いだしたい気持になる。
先に、末弟は一帯の神に、一連の事件を無きものとするよう暗に申し付けたのだ。それを読み取れぬ神々ではない。しかし、今その命に従うものは一柱とていなかった。
常には忘れがちではあるが、このヤトノカミはあの三貴子を相手どれるほど力の強い、位の高き神であり、何なら「尊いお方」とでも称せる存在なのであった。
どうも自己評価の低い末弟が、それを自覚することは無かったが。
今日あれの内側を垣間見た神々はさぞ驚いたことだろう。いつも晒している
むしろ、己と随分隔絶した格の皆々を、敬っているような節すらあるのだ。――あれほどの強大なる者が、だ。
その高貴たる末弟が、百五十年でやっと周りに一つ告げた命が先のものである。
なのに、誰も従いやしないのだ。コレが面白くないわけがない。
ここに在るのは、重たい沈黙などではない。侮蔑や見くびってのことではない。
彼の神を月の疑いから晴らすため。この面白き神を守ってやるため。
常に彼の神が振舞っていたように、神々があれを”対等”と認めたからこそ選ばれた、一つの答えだったのだから。
くっくと漏れ出した笑いは、本当に自然なものだった。低く漏るるウェイの文言は、よりこの神の気持ちを鼓舞してくれる。
昂る気持ちをそのままに、すっかりいつもの調子を取り戻したウェイの神は、月に向かって宣言する。
『エヘン、ともかく――
自らは、月に使えし
この名に誓って、我が弟ヤトノカミが善き神なることを、この天上界に害を成すようなことはせぬと誓いましょう!!』
煌めく赤い眼は後ろに庇った末弟と同じ色。
その美しき柘榴石の瞳で、月の闇の眼を見据えるは、たなびく白髪に兎の長い耳をぴんと立てた月の眷属。
――弟の危機に立ちはだかる、優しき兄神の姿がそこにはあった。
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