あ、いけそう
「高良♡ この女、誰?」
目は細められ口角が上がっているというのに、美鶴が笑っているようには見えなかった。
何一つとして悪いことをしていないのに、罪悪感を感じる。綺麗な道に捨てられた一つの空き缶を見た時みたいな感じ、拾わずスルーしたことになんとなく申し訳なさを覚えるような罪悪感。
それに何より、危機感に息が詰まる。回答一つで死が待っているような、そんな気がする。
何て答えようか、冷や汗を流していると、七海さんは振り返って美鶴と向き合った。それは数秒のことだったけれど、永遠に時が止まっているかのように錯覚した。
七海さんは俺の方に向き直ると、ドス黒い笑顔で急に腕に抱きついてきた。一瞬のうちに、グレープフルーツサイズの柔らかい感触、柑橘系の甘い香り、湿り気を帯びた体温まで伝わってくる。
「誰だろうね、転校生?」
ピキリと空気が凍る音が鳴った。拍手喝采、カーテンコール、人生の幕引き。ダクダクと汗が止まらない。
「ちょ、ちょい、七海さん。不味いって」
「何が不味いの?」
「いや、だから……」
続く言葉が出ない。好意を寄せてくれる女の子に、他の女の子とベタベタするところを見せづらい、なんて言えよう筈がないのだ。
美鶴を見る。笑顔は崩れていないが、こめかみに青筋が立っている。そりゃそうだ、昼休みに告白した男が、何もなかったかのように別の女といちゃついているのである。傷つくを通り越して、てめえマジふざけんな、とキレるにちがいない。
何とか言って、この状況を逃れなければ、命が危うい。
「ほら、素の姿を見られたら……」
「別にいいよ」
「ええ……」
昨日、素の姿を見せることについて『別に友達のことがどうでもよかったら、割り切って表面状の関係を保とうとするか、嫌われてもいいから素の自分を見せてるんじゃない?』と言ったことを思い出す。
つまりは、素の姿を見せても良い=どうでもいい、嫌われてもいい、となる。たしか美鶴と七海さんは、一年の間で人気を二分しているらしいし、もしかすると本気で仲が悪いのかもしれない。
そう考えると、今置かれている状況は思っている以上にやばい。
美鶴側としては、好きな男が嫌いな女に靡いているように見える。七海さん側としては、嫌いな女が突然キレてきて不快。
く、くうき、わっる。
「七海。高良から離れてもらえるかなあ?」
「ええ? どうして?」
「今から高良と二人で新しく出来た喫茶店に行く約束をしてるんだ。ねえ高良?」
そんな約束は一切していない。だが、美鶴の闇の眼差しを向けられて、俺はこくこく、むしろガクガクと頷いた。
「そうなの? でも、転校生は今日、私とゲーセンに行く約束をしてたよね? それは嘘だったの?」
そんな約束も一切していない。だが、ドス黒い笑みを向けられて、俺はぶんぶん、むしろブルブル首を振った。
「高良、優柔不断はよくないよ」
「そうだよ、転校生。そういうの感心しないなあ」
「「どっちを選ぶ……」」
二人ともそこまで言ったところで、言葉を止めた。
七海さんは冷や汗を流して俺の腕から離れ、美鶴は青汁を飲んだような苦々しい顔に変わった。
沈黙が訪れ、数十秒後、二人は同時に口を開いた。
「ま、まだ選ぶとかは早いんじゃない……ほら、振られた直後だからってわけじゃないけど、うん、まだ早い。そんな気がする」
「ああ、うん。やっぱり選ぶとかって、もっと仲良くなってからだと思う。よくよく考えたらやばい女って誤解も解けてないとか、好きにならない宣言を喰らった直後の身としてとか関係なく」
「「え?」」
二人の声が重なる。
「「あ、いけそう」」
また二人の声が重なった。
「高良、選んでくれて良いよ」
「転校生、こういうのは選ばないといけないよ」
二人が自信満々といった表情で口にした、その時だった。
「……図書室では静かにして」
肩にかかるくらいの黒髪は、濡れているかのように艶やかに流れている。切れ長の瞳は涼やか。鼻、唇は人形みたいに整っている。ほっそりとした足は長くて、綺麗、と目を奪われてしまう。全身はスレンダー体型なのがまた、この人の凛とした雰囲気にあっている。白百合って見た目だけど、鮮やかな赤のカーネーションが似合うような美人。
「ご、ごめんなさい。や、屋敷先輩」
七海さんが、そう言った。
問い詰められていた空気が霧散し、俺は息をつく。いっぱいいっぱいで回らなかった頭が、ゆっくりと回り出した。
どうやら注意してきたこの美人は屋敷先輩というらしい。っと冷静に分析してる場合ではない。迷惑をかけたのだ。謝って図書室から出ていかないと。
「すいません。今すぐ、出ていきます」
俺がそう言うと、七海さんも、美鶴も頷いた。そして歩き始めた時、腕を掴まれた。
「君は残って」
細く柔らかい指が肌に食い込んで、そこからぴりりと甘くて弱い痺れが走る。抵抗しようという気がなくなり、力が抜けていった。
「ちょ、せ、先輩!? 高良を離してくれません!?」
美鶴がそう言うと、先輩はパッと手を離した。
「じゃあ代わりにあなたが残ってくれる? 手伝いを頼みたいのだけれど」
「え」
美鶴が短い声を出すと、七海さんはイイ笑顔を浮かべた。
「ありがとう、葵さん! じゃあ、いこっか、転校生!」
「そ、それは違うって! 七海が残ってよ!」
争う二人を見て先輩は呆れる、とはかけ離れたキラキラした瞳を向けていた。
何これ。どういう状況?
このまま傍観していても良かったけれど、どことなく所在のなさを感じ、俺は声を出した。
「あの、俺が残ります」
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