第12話

 陽気な日差しが照らす駅のホーム、僕は息を切らしながらいっそこのまま停車せず通り過ぎればいいのにと、運動不足が祟った疲労から漏れる荒い呼吸と春先には似合わない額から垂れる汗を吐き出しながら電車を待っていた。


 そもそもなぜこんなに生き絶え絶えかというと家から駅まで歩いてきたからだ。それだけだ。それだけのことで僕はこのざまだ。やっぱり学校に電車で毎日通うなんて無理だったのではないだろうか。世の学生、並びにサラリーマンたちには驚きを隠せない。


 思いとは裏腹に時間通りに到着した電車に死に体で乗り込もうとする。しかし、歩き出すと同時に点字ブロックに足を取られ車体に衝突する。・・・顔が、痛い。


 痛む顔を擦りながら発車を待とうとつり革に手を伸ばそうとしたとき、全身から汗を吹き出しながらふらふらとしているのを見かねたのだろう。座席に座っていたお婆さんが声をかけてくれた。


「あなた大丈夫?良かったら席を変わりましょうか」


 恐らくさっき車体に衝突したのを見ていたのだろう。ただ昔からお年寄りには席を譲りなさいと教えられた僕としては自分の疲労よりも気遣いと申し訳なさが勝ってしまう。


「だ、大丈夫・・・です。私のことは気にしないで、ください」


 目を逸らした僕の気持ちを察したのだろう。


「倒れそうな子に席を譲られるほど私は老いてませんよ」


 と逆にお叱りを受けてしまった。優しい声色で僕のことを本当に心配してくれているのだと感じ、申し訳なさがより増していってしまう。


 女の子になった影響か、引き籠って人に触れてこなかった影響か、涙もろくなってしまった僕はお婆さんの優しさに目の奥が熱くなり動けなくなってしまう。


 そんなうじうじしている僕を見かねてか、お婆さんの隣に座っていたスーツ姿のお兄さんが立ち上がり


「俺が変わるんで座ってください」


 と動けない僕をやや強引に座らせた。


 嬉しさや恥ずかしさの感情が溢れ、終ぞ泣き出してしまった僕にお婆さんはハンカチで涙を拭き、お兄さんは慌てた様子で困惑していた。


「あらあら、どうしたの。言い方がきつかったかしら、ごめんなさいね」


「ち、違うんです。こんなに優しくしてもらってるのに、情けない自分が恥ずかしくて」


 もうどうしていいのかすらわからず、抑えられない感情のまま泣き続ける僕をひたすらに慰めてくれるお婆さんの声は、どうしようもなく暖かかった。


 しばらくして落ち着いた僕を見て「良かった、大丈夫そうですね」と声をかけ、お兄さんは優しく僕の頭を撫でた。男性に触れられビクリと反応する僕に


「あ、すみません。いつもの癖で。知らない男に撫でられても気持ち悪いですよね。すみません」


 謝り続ける彼はどこか爺ちゃんに似ていた。口下手で、だけど人一倍優しい不器用な人に。


「い、いえ大丈夫です。ちょっとびっくりしただけなので。あの、ありがとうございました」


 僕がお礼を告げると「そ、それでは」と彼は慌てた様子でホームに降りて行った。


 それから僕はお婆さんと目的地に着くまでの間、取り留めのない会話をした。今日が入学式なのに遅刻をしたとか、朝ご飯を食べてないからお腹が空いたとか。話をしていく中でなんと僕と同い年の孫がいてお婆さんのお孫さんも今日が入学式らしいことを聞いた。同じ学校かはわからないけど。多分、会えたとしても話すことはないだろう。僕には、無理だ。


 話をしているといつの間にか降りる駅に着いた。僕はもう一度お婆さんにお礼をを言って頭を下げて電車を降りた。


「学校、大変だと思うけど頑張ってくださいね。応援してますよ」


 別れ際、お婆さんは優しく微笑みながら手を握ってくれた。

 

 そうだ、頑張らなくちゃいけない。進むと決めたからにはこんなことで挫けてちゃいけないんだ。


「・・・はい!」


 僕は明るく元気に見えるよう、そう返事をした。


――――――――――――――――――――――――――――――


 改札を抜ける。駅に備えて付けられた時計を見ると現在時刻は九時十五分、入学式はとうに始まっているだろう。爺ちゃんは心配しているだろうか。わからないが行くしかない。


 歩道を見回しても当然、制服を着ている姿は見当たらない。まさか入学式から遅刻するなんて僕くらいだろう。


 さて、今まで一度も一人で学校に来たことがなかったため駅から学校までの道のりがわからない。そもそも学校に自体入試を受けに行った一回きりで、それも爺ちゃんの車で行ったことがあるだけだ。


 いや勘違いをして欲しくないのが事前に経路を確認していなかったわけじゃない。携帯で最寄り駅からの道も調べてあるし、しかも学校のホームページもブックマークで登録してある。

ただ初めてくる場所で、地図で見るのと実際に目で見るのとは全然違うわけで、道がわからなくなるのは当然と言えば当然ということになる。


 まあ、なんだ。端的に言ってしまえば、僕は道に迷ったというわけだ。昔から道に迷いやすいというか、地図が読めないというかいわゆる方向音痴というやつなのだろう。


 だが何。心配することはない。僕には文明の利器、携帯電話がある。これさえあれば・・・ない。ない。ない!携帯電話がない!鞄を漁っても携帯電話のけの字も見つからない。


 ふと思い返す。そういえば家を出るときに鞄に入れただろうか。机の上に充電したままじゃなかっただろうか。


 額を伝う冷や汗を手で拭いながら僕は歩き出す。ふふふ、面白いじゃないか。大丈夫、一度は地図を見て周囲に何があるかなどは確認済みだ。あとは記憶を頼りに学校へ向かうだけ。簡単なことだ。


 確か、駅から大通りをひたすら真っすぐ行ったところあるコンビニを曲がった先に学校はあったはず。

こんな簡単な道を間違えるはずはない。僕は迷いなく大通りを歩き始めた。


 真っすぐ行って曲がるだけ、そんな道で迷うはずがあるわけない。


 はずだった。


「ここ、どこ?」

 

 気がつくと小さな公園にたどり着いた。当然、地図に公園があったかなんて覚えていない。


 疲れ果てた僕は設置されているベンチに腰をかけ一息つく。


「おかしいなー、確かコンビニ曲がってすぐだったはずなんだけど」

 

 どこで間違えたのだろうかと一人、鞄を抱えて息を整える。


「結局、僕には学校なんて無理だったのかな。携帯忘れるし、道間違えるし。そもそも寝坊するとか」


 ここまでくると変な笑いが込み上げてくる。僕は駄目人間だ。碌に学校にも行けやしない。いっそこのままどこか遠くに行ってしまおうか。そんな気さえしてくる。


「あーあ、もう嫌になっちゃうな」


 憂鬱な気分だ。また、僕は進めずに停滞したまま置いてかれてしまうのか。


「えっと、そこの君。大丈夫?」

 

 ふと、声をかけられた。男性の声だ。びくりと体が震える。


 声のした方を見ると恐らく同年代、高身長の爽やかそうな青年が立っていた。

大人びた風貌に思えるが顔つきにはまだ幼さが残る、そんなふうに感じられた。利発そうな眼鏡をかけ、その瞳は僕のことを心配そうに覗いていた。


「びっくりさせてごめん。なんか凄い深刻な顔してたからつい声かけちゃった」


「大丈夫、ではないんですけど大丈夫です」


 助けてほしい気持ちと迷惑をかけたくない気持ちが混ざりおかしな言い方になってしまった。


「それは、大丈夫じゃないってことでいいの?僕で良ければ話聞くけど・・・」


 ああ、助けてほしい。助けてほしい、けど。この人は、良い人だろうか。僕を騙そうとしていないか。わからない。わからないから、言えない。助けてって、口が動かない。


『また逃げるのか』


 でも怖い。


『進むって決めたんじゃないのか』


 だって一人じゃ何もできない。


『お前の決意はそんな簡単に揺らぐものなのか』


 そうかもしれない。だって僕は弱いから。


『情けないやつだな』


 その通りだ。僕は、弱虫だった。


 気づいたら彼はいなくなっていた。俯いたまま何も言わない僕に業を煮やしたのか彼はどこかにいってしまったのだ。

無駄だということはわかっていても彼がいた場所に手を伸ばしてしまう。


 大丈夫じゃなかった。助けてほしかった。助けてって言えば良かった。


「誰か、助けて」


 今更、口から零れ落ちる。意味なんてないのに。

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