第10話
僕は太陽の日差しを肌で感じ、ゆっくりと身体を起こした。
春先の空気はまたひんやりと冷たく、両手を擦り合わせなんとか暖をとる。
居間に着くと爺ちゃんと婆ちゃん、そして舞里が朝食の準備をしていた。
重苦しい空気は感じられない。普段と変わらない日常は昨日の出来事をまるで夢だったのではないかと錯覚させる。舞里は明らかに様子がおかしかったが、婆ちゃんはそれは僕を愛しているからという。妹が兄を愛するとか・・・なんて僕は思わないが実際に僕が当事者になると少し、いやかなり複雑だ。
しかし、昨日の出来事は現実で、だからこそ僕は言わなければいけない。ちゃんと話をしなければならない。
「あ、お兄ちゃんおはよう。いつも通りお寝坊さんだね?」
「うん、おはよう。もう起きて大丈夫なの?しんどいならまだ寝ててもいいと思うけど」
「元気も元気!もう大丈夫だよ。昨日は心配かけちゃってごめんね?」
「・・・なら、いいけど」
大丈夫。つまりはこれ以上踏み込むな、ということだろう。僕は何も言えなくなった。
それから僕は一言も喋ることなく食事を終えて自分の部屋に戻ることしかできなかった。
扉を開けて布団に身体を投げる。温もりは既になくひんやりと冷たくなっていた。
枕を抱き寄せて顔を埋める。深呼吸をするとシャンプーの香りが鼻を通り抜けて心を落ち着かせる。
満腹で横になったからだろうか、いつしか僕は微睡みの中へ思考を投げ捨てていた。
枕を顔の上の乗せてウトウトしていると扉を叩く音で意識を取り戻すが目を瞑ったまま溜息を吐いた。
「お兄ちゃん、居る?」
それでも枕を離すことはなく、微睡みに逃げようと固く目を瞑る。
「入るよ?」
扉が開かれ、足音が徐々に僕の近くへ寄ってくる。そして僕の隣に腰かけると何を言うでもなく僕の頭を撫でる。
「なにさ・・・」
眠気に誘われたままにした返事はどこかぶっきらぼうになってしまった。
「ううん、お兄ちゃんには悪いことしたなって思ってさ。」
「違うよ、僕が勝手に拗ねてるだけだ」
妹の気持ちがわかってやれず、理解してやれない。それなのに婆ちゃんは知ったような口で僕を諭すのだ。それに苛立って、ムカついて。でもそれを吐き出す場所はなくて自分の中で渦巻いている。我儘なだけの子供だ。
「昨日さ。私が言おうとしたこと、知りたかったんでしょ?」
「・・・うん。でも言いたくないなら言わなくていい」
嫌なら言わなくていい。今はもう聞きたくない。言わないでほしい。だってそれを聞いてしまったら僕は舞里にどう接してやればいいのかわからなくなってしまう。
「実はね・・・私」
やめてくれ。その先を言わないでくれ。僕を兄でいさせてくれ。
「私、お兄ちゃんのことが」
焦る気持ちの中、聞きたくないはずの舞里を言葉を一語一句、聞き逃さないよう耳を澄ましていた。
それは諦めに似た感情で、それと同時に悲しみが僅かに込み上げてくる。
「ずっと心配だったの」
「え?」
「だってお兄ちゃんナンパの後にも色々あったでしょ?だから大丈夫かなって、でも一生懸命頑張ってるお兄ちゃんの邪魔しちゃいけないと思って言うのやめてたの。だって一緒に頑張ろうって言った私が水を差すのはおかしいじゃない?」
笑顔で、でも少し申し訳なさそうに言う舞里はいつもの舞里だった。普段通りの僕の妹の舞里だ。
けど僕は知っている。舞里には嘘を吐く時に出る癖があるのだ。それは『相手から目を離さなくなること』だ。いつもは身振り手振りを加えながらせわしなく話す舞里だが嘘を吐くときはジッと目を見つめて逃がさない。
そして今の舞里は僕から目を離そうとしない。つまりはそういうことだ。
舞里は僕に嘘を吐いている。何の為だろうか、それは絶対とは言い切れないが十中八九、僕への思いを隠すため。舞里は誤魔化そうとしている。ならば僕は流されるのが最善だろう。わざわざ暴く必要もない。
呼吸が楽になった。そこで気づいたんだ。僕は心底、安心している。余計な思いを背負わなくてよくなったことに。最低だと自分でもわかっているが軽くなった心は否が応にもそれを伝えてくれた。
だから僕も最低の道化になることにした。何も知らない哀れな兄を演じるのだ。
僕は大袈裟には溜息をつき、腕を組んだ。
「もう、そんなこと気にしなくていいのに!僕は大丈夫だよ。舞里が横に居てくれれば頑張れる」
「ならいいけど。でも私がいなくてもいいようになってよ?いつも私がいるとは限らないんだから!」
「わかっているよぉ。友達もできたし学校でも多分大丈夫だと思う。舞里は僕のことなんか気にしないでいいんだからね!」
「あーらそうですかぁ?そんなこと言うなら次は何かあっても助けなくてもいいよね」
「ぐっ、だ、大丈夫だし。自分で何とかするから・・・」
「それじゃあお兄ちゃんの武勇伝、楽しみにしてるからね?」
「ま、任せてよ」
苦々しい顔をする僕を見て、舞里は僕から視線を外した。
そして舞里と僕は同時に溜息をついたのだった。また視線が合うが、互いに同じタイミングで溜息をついたのが面白かったのか僕たちはクスクスと笑いだす。
「もー、なんで一緒に溜息つくのさ」
「舞里が変なこと言うからでしょ」
「それはお兄ちゃんもでしょ。ああ、お兄ちゃんのせいで疲れちゃった」
舞里は両手を床について天井を仰ぎ、深呼吸をする。
「・・・お兄ちゃん」
その声はさっきまでのおちゃらけた様子はなく、真面目な顔をしていた。
「なに?」
「いつか言えるときになったら言うからさ。それまで待ってて。今度は嘘吐かないから、それまでは騙されてくれると嬉しい。妹からの一生のお願い」
「・・・なにそれ」
「駄目?」
「僕は妹からのお願いなら一生のお願いなんか使わなくてもいくらでも聞くけど?」
「そっか、お兄ちゃんは優しいなあ。じゃあお兄ちゃんの妹は一生幸せだね」
「一生幸せな妹が何言ってるの」
「・・・それで、私のお願いは聞いてくれる?」
「よくわからないけど、わかった。騙されてあげる。優しいお兄ちゃんに感謝してよ?」
「やった、ありがとうね。世界一優しいお兄ちゃん」
「うん」
それっきり僕たちは何も話すことはなく、知らぬうちに疲れていたのだろう。いつの間にか僕たちは眠っていた。
手を繋いだまま、抱き合うように眠る僕たちは傍から見れば仲の良い姉妹なんだろう。
実情は女になった兄と兄を愛する妹なんて歪んだ関係だがそれでも仲が良いことに変わりはない。
目を覚ました時にはもう昼過ぎで、隣に舞里はいなかった。
居間にいくとそこには普段と変わりのない日常があった。朝となんら変わらない、しかし明確に違う日常。
舞里と目が合うとニヤリと手を振りながら「お寝坊さん」と笑った。
いつもの舞里はやはり落ち着く。
でもいつまでもこのままというわけにはいかないのだろう。いつかは崩れる日常。しかし今はこの日常を楽しんでいたい。問題の先送りと言われようが僕は待つと決めた。それまでは僕は道化だ。可愛い妹に騙される哀れな兄を演じ続ける。それが今、僕が舞里にしてやれることなんだと、僕は僕を騙すことにしたのだ。
それまではいつか来る日に怯えながら楽しい日常を謳歌しよう。
「そういえば瑠里」
爺ちゃんが口を開く。
「少し早いが合格おめでとう。来月から学校が始まるから準備をしておいてくれ。足りないものがあるなら買いに行くから今のうちに言っておけよ」
「うん、大丈夫。準備は完璧だから」
「ならいいが。まあ、ほどほどに頑張れよ」
学校、あまり良い思い出はないけどそれでも新しい生活はどこか楽しみで不安が一杯だ。
僕としては目立たず騒がず、本を読んで昼寝が出来ればそれでいい。そんな期待を込めて僕の学校生活は始まろうとしていた。
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