閑話

カチ、カチ、と時計の秒針が痛いくらいに静かな部屋に響き渡る。カーテンの隙間から仄かに月明かりが差し込み、夜だと理解した。目だけを動かして時計に向ける。一時二十五分、深夜だった。

 

 目が冴えてしまった。身体は重く、起きる気にはなれないがもうひと眠りすることができない。

天井を眺めながら呆然としていると額に違和感を感じ、その正体を探ろうと気怠い身体を無視して腕を伸ばす。しかし、思いとは裏腹にピクリとも動かない腕。

あの時に無理をしてクレープを二つも食べたのが不味かっただろうかと若干の後悔の念を抱く。


 そもそもチャラ男共にナンパに遭ったときから身体が不調を訴え始めていた。それでもたった一人のお兄ちゃんを守るためと自分を奮い立たせ、戦った。結局はお兄ちゃんに助けられてしまったが本当は、最悪チャラ男を殺してでもお兄ちゃんを守り抜くと決めていた。


 しかしだ、あの男が現れた。現れてしまった。茶髪男、お兄ちゃんの心を溶かした忌々しい間男。

私が守るはずだったのに全てを横から掻っ攫っていった。手柄も、お兄ちゃんの心も。

確かに私一人では守り切れるとは思わなかった。私も警備員なり助けを呼ぶつもりだった。

それでもだ。颯爽と現れてナンパに遭っている女の子を助け、名前も名乗らず消える。まさにお姫様を助ける白馬の王子様だ。モブの出番はなく良いところは全部、王子が総取りして幕を閉じるありがちな物語。

ふざけるな、私のお兄ちゃんをそんな糞のようなテンプレのシンデレラストーリーに引き摺り込むんじゃない。


 私はあの男がお兄ちゃんを背負い歩くたび、お兄ちゃんに話かけるたび、お兄ちゃんがあの男に頬を染めるたび、苛立ちが込み上げる。腹の奥底が嫉妬で渦巻き、憎悪と吐き気で頭が一杯になった。


 あの男との別れ際、私は上手く笑えていただろうか。誤魔化すためとはいえ心にもないことを口走ったのは今になって失敗だったと後悔している。言うに事を欠いて”運命の人”?笑い話にもならない。


 ああ、私は独白しよう。私はお兄ちゃんを愛している。家族愛や兄妹愛なんて生易しいものじゃない。ましてや恋愛や異性愛なんて温い関係は望んでいない。私はお兄ちゃんをそういう存在として、夏芽瑠里という人間を心の底から愛しているし、求めている。この愛に名前を付けるのなら、”依存”と誰かは答えるだろう。


 歪んでいる?愛し方がおかしい?そんなもの疾うの昔に悩んだ。

あれは五年前、私が小学四年生の頃だったか。お兄ちゃんが唐突に「お風呂に一緒に入るのはやめよう」と言い出した。私は酷く動揺したのを覚えている。その時の私はまだお兄ちゃんに恋愛感情を持っていなかったが、恋愛や男女の云々、思春期の存在は知っていた。だからもしかしたら本能的にお兄ちゃんが異性を意識し始めていると認識したのかもしれない。つまりはお兄ちゃんに好きな人ができたら私とお風呂に入らなくなったのではないかと思ったわけだ。

 

 本当の意味でお兄ちゃんが大好きだった私はお兄ちゃんに恋人ができてしまったら私と遊んでくれなくなるのではないか、二度と会話をしてくれなくなるのではないかと勘違いした。


 ”お兄ちゃんに恋人ができたらお兄ちゃんと一緒に居れなくなる。”それに気付き、私は一つ歪んだ。


 まずはお兄ちゃんに気がありそうな女を探した。最悪なことにお兄ちゃんに『妹と一緒にお風呂入るなんて変』と余計なことを吹き込んだクラスメイトがまさにその女達だった。そう、”達”。お兄ちゃんはクラスの中でかなりモテていた。

大声で騒いでいるガキ丸出しのクラスメイト男子のなかで、お兄ちゃんの物静かな雰囲気が一つ大人に見えたのだろう。


 私は悩んだ。敵は一人だけではない。お兄ちゃんのクラスメイトほぼ全員、それにお兄ちゃんと同じ部活動の女も入るだろう。幼い私にはどうすることもできなかった。精々、お兄ちゃんの下駄箱に時折同封される手紙を捨てることぐらいだろうか。


 そんな小さな嫌がらせを小学校卒業まで続け、無事にお兄ちゃんは誰とも付き合うことなく卒業していった。

幸いなことにお兄ちゃんは鈍感で男女の恋愛がわからず、告白されようとも全て「よくわからない。付き合ってどうするの?」と一刀両断していた。告白した側からすれば「お前と付き合ってもどう仕様もない」と受け取られたのだろうが、お兄ちゃんとしてはそもそも付き合うの意味が分からないから「付き合うって何?」と聞いているだけに過ぎない。その時ばかりは私も同情してしまったほどだ。


 私が中学に上がるまでの一年間は流石に手出しが出来ず、お兄ちゃんの表情や携帯電話のアドレス帳から彼女の有無を把握していた。

それでも男性らしき名前が時折増えるばかりで女の存在は見る影もなかった。

もしや私に隠しているのでは、と思い直接お兄ちゃんに聞いたこともあるが「僕なんかモテるわけないでしょ?こんなんだし」と本を軽く持ち上げて眠たげに呟くだけだった。


 実際、私が入学してからお兄ちゃんのクラスを見に行ったが、お兄ちゃんは教室の窓際で日向にあたりながら本を枕に眠っていた。それを気にする女はおらず、完全に背景に溶け込んでいた。


 いつしか私はお兄ちゃんの周りから女を探すのはやめた。そんなことよりもお兄ちゃんに私をより好きになってもらうにはどうすれば良いか考えるようになった。

私はお兄ちゃんに女として見てもらいたいわけじゃない。ただ一緒に居たいだけ。お兄ちゃんがそういう関係を望むのならやぶさかではないが、別段そういう行為をしたいとは思わなかった。


 だからだろうか。お兄ちゃんが”お姉ちゃん”になったときは心のどこかで安堵していたように思える。「ああ、これで女にとられずに済む」と。


 しかし、一つ誤算があるとすればお兄ちゃんの葬式に参列した男。お兄ちゃんのクラスメイト、より詳細に言うなら幼稚園からの幼馴染が泣きながらお兄ちゃんを見送ったことだった。

 彼はいつもお兄ちゃんの隣にいた。遊びに行くぞと言って苦い顔をするお兄ちゃんの手を引いて駆け出す。太陽のような笑顔を振りまく彼を迷惑そうにお兄ちゃんは「やれやれ」といったふうに、けれど緩んだ口元は正直で。そんな太陽と月を私はいつも遠くから眺めていた。


 お兄ちゃんの形だけの葬式が終わったあと、病院の一室。無表情のまま、微笑むお母さんとお父さんの写真を横目にお兄ちゃんの頬を撫でながら呟く。


 ”あー、そっか。今度は男か。そうだよね意味ないじゃん”


 また一つ、私は歪んだ。


 お兄ちゃんが目を覚まし退院して、家に引きこもり外界を遮断して私以外との会話も少なくなり、私の服を着て、私の下着を着けて、私の話を鵜呑みにして。着実に私に依存していく様をみて快感を覚えるようになった。


 3か月ほど経ったある日、私はあることに気づいてしまった。あれだけ心地良かったお兄ちゃんの依存心に何も感じなくなってしまったのだ。あれだけ愛していたお兄ちゃんの心を私だけのものにできたのに喜びが、高揚感が、優越感が微塵も消えてしまった。

 私は考えた。どうしてだろう、全てが虚しくなってしまった。それからはただ悪戯にお兄ちゃんの心を弄んだ。暇を潰すように、しかし私から離れられないように。


 それから季節が変わり、冬。休日の朝、朝食を食べ終わり今日は何をしようかと悩んでいるとお兄ちゃんがお爺ちゃんに呼び出されるの目撃する。私は部屋の外で聞き耳をたてていた。聞いた話を要約すると、お兄ちゃんが社会復帰のためにお爺ちゃんの学校に行くことになるかもしれないということだった。


 その時私は酷い憤りを感じたのを覚えている。

お兄ちゃんが学校に行くということはまた、私のお兄ちゃんを盗ろうとする奴らが現れるということ。そんなことは許されないし、私は絶対に許しはしない。

未だ居もしない人間に激しい嫉妬の炎を燃やす。しかし、しかし何故だろうか。苛立ちの中に僅かな高揚感が私の心を満たしていた。そして私は気付く。いや、気付いてしまうといったほうが正しいか。


 私はお兄ちゃんが私以外の存在に心が向いているときほど、お兄ちゃんのことが好きになる。

お兄ちゃんが他人を好きになればなるほど、私のお兄ちゃんへの愛は深くなりその心を奪いたくなってしまう。


 それが私の本性だった。


 私は二人に気づかれないよう自分の部屋に戻った。ベットに身体を投げ、枕を抱き寄せる。どれくらいそうしていただろうか、ふと時計を見ると昼前になっていた。


 何気なく私は部屋にある鏡を覗き込んだ。鏡の中の私は眉間に皺が寄っていて酷く苛立っている、しかし口元だけが三日月のようにわらっていた。


 また一つ私は歪む。私の大好きなお兄ちゃん。お兄ちゃんは私だけのもの。奪えるものなら奪ってみるといい。それまではお兄ちゃんが学校に行けるように全力でサポートしてあげる。

 

 ああ、人が苦手なのに学校に行くために頑張っているお兄ちゃんは格好良いし、男の人にぶつかって涙目になっているお兄ちゃんは可愛い。私以外の女の話を嬉々として話すお兄ちゃんは苛々するし、私以外の男に頬を染めるお兄ちゃんは閉じ込めて私だけを見てほしくなる。もっと、もっと、もっと私以外の人を見てほしい。私以外の人間を好きになって欲しい。そして最後にその心を奪わせてほしい。


 いつか、お兄ちゃんに本当の私を見せれるように。でもそれまでは私はお兄ちゃんの妹でありたい。 

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