第2話 知らない天井
夜が、ひどく長く感じた。
咲良は横になったまま、天井を見つめていた。見知らぬ家。知らない家族。慣れない布団。
すべてが身体の外にうっすら膜を張っているようで、自分だけがどこか浮いているような感覚。
枕元には、昼間に外した義足がそっと横たわっている。
(まだ、本当にここで暮らすんだって、実感が湧かない)
息を吸い込むたびに胸が重くなる。
母はもう寝ている。義父の部屋も静かだった。
家のどこからか、くぐもった寝息と、時折きしむ床の音が聞こえる。
――眠れない。
義足を履かないままでは水も飲めない。
咲良は意を決して、ベッドの縁に手をつき、体を起こした。
義足のない右足を庇いながら、慎重に床へ降りる。
(夜の家って、こんなに暗かったっけ……)
廊下に出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
壁伝いに、咲良はゆっくりと階段に向かう。
手すりをぎゅっと握り、片足でバランスを取りながら、なんとか一段ずつ降りていく。
あと少しで一階というところで、誰かの足音が近づいた。
「……お前、何やってんの」
暗闇の中で聞こえた声。
少し低く、ぶっきらぼうで、でもどこか抑えたような響き。
蒼だった。
昼間も目を合わせようとしなかった、無愛想な三男。
「水……飲もうと思って……」
息を切らしながらそう答えると、蒼が近づいてきた。
「義足は?つけてないのかよ」
「……うん、つけるの、面倒で」
蒼はため息をついて、咲良の横に立つと、ひょいと片腕を咲良の背に回した。
「手すりだけじゃ危ねぇだろ。……下まで行くぞ」
「えっ……」
驚く咲良に、蒼は視線も合わせず、ただ一言。
「落ちられても困るんだよ」
蒼の手は無骨で、少し冷たくて、けれどしっかりと支えてくれた。
一歩、また一歩。
蒼のペースに合わせて、咲良は慎重に階段を降りた。
やっとの思いで一階に辿り着いたとき、咲良は息を吐いた。
「……ありがとう」
「礼は水飲んでからにしろよ」
蒼はそう言って、台所の電気を最小の明るさでつけた。
そのやさしいオレンジ色に、咲良の肩の力が少しだけ抜けた。
コップに水を注ぐ間、蒼は黙ったままカウンターに寄りかかっていた。
咲良が水を飲み終えるのを待って、彼はぽつりと言った。
「……ここ、住みにくいか?」
「ううん。……でも、慣れるには時間かかるかも」
咲良は正直に答えた。
蒼は「ふーん」とだけ返したあと、壁の時計を見て、静かに言った。
「他人しかいない家だと思ってるだろ。……でもまあ、時間かけりゃ、あんたの家にはなるよ」
「……家族には?」
蒼は少しだけ口元を動かし、それから真顔で言った。
「それは……どうだろうな。でも、“他人よりはマシ”にはなる」
その言葉がなぜか、咲良の胸の奥に温かく沈んだ。
「戻るぞ。歩けるか?」
「……うん。お願い」
また咲良の肩を支えながら、今度は階段を上がる。
ゆっくりと、でも確かに2人の距離が少しだけ近づいたような気がした。
部屋の前で、蒼が咲良を支えたまま振り返る。
「……転ぶなよ」
「転んだら、また助けてくれる?」
そう聞くと、蒼は少しだけ眉をひそめて、
「仕方ないだろ。うちは、兄弟が7人もいるんだから」
と言い残し、部屋に戻っていった。
咲良は布団に戻ると、義足に手を伸ばしてそっと撫でた。
(たしかに……“他人よりはマシ”かも)
ようやく、目を閉じられそうな気がした。
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