第221話 地獄のマナー講習

 ようやく正気に戻ったダニエラ様はコホンとかわいく咳をすると、何事もなかったかのように表情を戻した。もっとも、ほほは赤いままだったが。それでも、その場にいるだれもが何も言わなかった。


 つまり、今のは何もなかった、何も見なかったということだ。俺もそれに従おう。妙なウワサが立つよりかはマシだ。俺は何も見なかったし、柔らかく包まれるような感触なんてなかった。


「これで氷室の改良は終わりになります。手伝ってくれたみなさん、ありがとうございました。おかげで予定よりも早く作業を終わらせることができました」

「とんでもありません。我らのために氷室を改良して下さったのですから。手伝うのは当然のことですよ」


 その場にいた王宮魔法薬師たちが代わる代わるそう言った。そうこうしているうちに、調合室で作業中だった残りの王宮魔法薬師たちもやって来た。


「氷室が完成したと聞いたのですが……」

「ダニエラ様!? 御機嫌麗しゅう……」


 そこからは人が入り乱れての「氷室見学会」が開催された。もちろんダニエラ様も中に入った。王族を入れるのはどうかと思ったのだが、「どうしても」と言うので入れるしかなかった。氷室の中ではずいぶんと楽しんだようである。もしかしてダニエラ様は魔道具が好きなのかな?


「氷室の改良に携わった皆様、本当にご苦労様でした。王家にこのような素晴らしい施設がまた一つ増えたことを、大変喜ばしく思います。国王陛下もきっとお喜びになることでしょう」


 ダニエラ様がその場にいる全員にねぎらいの言葉をかけた。まさかお姫様から直々にそのような言葉をかけてもらえるとは思ってもいなかったみたいで、泣いている人もいた。


「古代の氷室が再現され、スペンサー王国はさらに発展することになるでしょう。これからもぜひ王家に、そして国民に、皆様のお力を貸して下さい」


 ダニエラ様が頭を下げた。それを止める声がいくつも上がった。

 感動的だな。だが、古代の氷室を再現していないぞ。そもそも、古代の氷室がどんなものなのかも知らないのだから。




 氷室の改良は無事に終わった。これでこの国の魔法薬はさらに発展することだろう。氷室の性能があまりにも悪く、貴重な素材の品質がどんどん低下するのがもったいないと思っただけだったのだが、ずいぶんとおおごとになってしまった。だがこれで、俺の仕事も終わった――。


「ユリウス、どこに行くつもりだい?」

「えっと、やることが終わったのでこれから昼食を食べて、剣術の練習に行こうかと……」

「そんな暇はないからね? 今から三人にはマナー講習を受けてもらうよ」


 アクセルとイジドルの顔色が青くなった。たぶんそれは俺も同じだ。今から……まさか、食事のマナー講習から始めるつもりなのか!?


「あの、剣術の練習は?」

「大丈夫。すでに剣術の練習にも、魔法の訓練にもしばらく参加できないって伝えてあるから。アクセルとイジドルも心配は要らないよ。二人の許可ももらっている」

「ヒェッ」


 だれかが小さく声を上げた。アレックスお兄様が登城している時点で気がつくべきだった。そうだよね、ダニエラ様の顔を見るためだけに登城しないよね。

 そんなダニエラ様は俺たちと一緒に昼食を食べることができるのがうれしいのか、ニッコリと笑っている。その笑顔に励まされるように、俺たちは昼食へと向かった。


「ダメだ、何を食べたか全然覚えていない」

「ボクもだよ。おいしかったかどうかも分からない」

「子羊のステーキが一番、おいしかったかな。小さかったけどね。あの大きさでちょうど良かったような気がする。もうちょっと食べたいなって感じでさ」

「さすが、余裕があるよね、ユリウスは……いや、ユリウス様は」


 俺たちはダニエラ様に連れられて、王族のプライベートスペースにある、王族専用の食堂へと向かった。その段階で、俺はもうあきらめた。これは本気だ。逃げられないし、拒否できない。そうすると力が抜けて、それなりに味わって食べることができた。もちろん、何度か注意はされたが。


 だがしかし、アクセルとイジドルが弾よけになってくれたので、被害は少なかったと思っている。二人にとっては地獄だったのかも知れないが。まあ、そのうち慣れるさ。

 昼食後の腹ごなしの時間まではさすがにあれこれ言って来なかったが、イジドルは警戒しているようだ。良い心がけだぞ。


「このあとはどうなるのかな?」

「えっと、この予定表によると……ダンスの練習だな」

「ダンスの練習!」


 イジドルが絶望的な顔になった。運動神経があまり良くないからね、そんな顔になるのもうなずける。だがダンスくらいは踊れるようになっておいた方が良い。将来、事あるごとに踊らされることになるのだから。


「大丈夫、そんなに難しくないダンスのはずだからさ。それこそ、五歳児でも踊れるよ」

「ユリウス様と一緒にしないで下さいよ」

「本当だって。アクセルはダンスができるんだろう?」

「ああ、それなりにな……できます」


 うーん、いまいちマナーモードへの切り替えがうまくいっていないようだ。どこかに切り替えスイッチがあれば良かったのに。これはもう、慣れるしかないな。

 予想通り、アクセルはダンスを踊ることができる。それならイジドルの練習に集中してもらえそうだ。そうなれば、俺たちに向く目が少なくなるぞ。


「みんなそろってるね。それじゃ、移動しよう」


 アレックスお兄様に連れられて向かった場所はダニエラ様の私室だった。初めて来る場所に、アクセルとイジドルの顔が引きつっていた。気持ちは分かる。俺も同じ顔をしたい気分なのだから。

 お兄様が扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。


「お待ちしておりましたわ。準備は整っていますわよ」


 この国のお姫様の私室は広い。室内には当然のようにピアノが置いてあり、ダンスの練習ができるほどのスペースがあった。以前俺が「あの先はベッドルームだ」と思っていた場所は、小さな書庫だった。そこにピアノが置いてある。


 部屋の中にあるテーブルやイス、ソファーを端に寄せればダンスホールの完成だ。現に部屋の隅にテーブルやイスが置かれていた。

 この部屋にはもう一つ扉があり、今度こそ、ベッドルームにつながっていると思っている。


「それでは練習を始めましょうか」


 そう言うと、ダニエラ様がピアノの前に座った。

 え、まさか、ダニエラ様が弾いて下さるのですか!?

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