水と0.00数%の不純物
※『デス・リベンジャーズ』の番外編(アザミ編)です。
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ピトン、ピトンと雨漏りがガラスのコップの水面を叩いている。
今日は記録的な台風が接近しているらしい。昼間だっていうのに、窓の外は夜みたいに真っ暗だ。
「水……水素原子二つと酸素原子一つの化合物」
「次」
「地球上に最も多く存在する常温常圧で液体の物質」
「次」
「固体の密度より液体の密度の方が大きい」
「次」
「……あの、アザミ様、この問答に何の意味が?」
世話係の平塚は困ったように剃刀負けした鼻の下を掻きながら言った。ガリッと口の中で硬い音がする。
危ない危ない、うっかりロリポップを噛み砕くところだった。
「なんだ? もうギブアップか?」
「いえ。ただ、何故水の性質について知っている限りを述べよと命じられたのかわからなかったものですから」
「別に意味なんてねぇよ。強いて言うなら雨だからな」
「はぁ……」
「じゃあなんだ? キサマは意味のあることばかりを話してるって証明出来んのか? そもそもキサマがこの世に存在してることに意味があるのか? 世界の大半はキサマの名前すら知らねぇってのに?」
「何もそのような話をしたいわけでは……」
「いいから付き合えよ。こちとら演算が終わるまで暇で仕方ねぇんだ」
ベッドの上に固定された黒いディスプレイでは『error』の白い文字が躍っている。
パスワードの推測を成功させる鍵は勘と経験と運。ま、このアタシにかかれば、終わるまでざっとあと五分ってところか?
「水、水……融点0度、沸点100度の物質」
「次」
「中性、ペーハーが7の液体」
「次」
「磁石に反応する」
「次」
「電気を通す」
ガリッ。
おっと、うっかり噛み砕いちまった。
「電気は通さねぇだろ」
「え?」
「水が電気を通すのは電解質があるからですー。理論純水は18.25×10^6Ωcmの電気抵抗率で完全なる絶縁体ですー。そんなことも知らねぇのかバーカバーカ。恥ずかしいー、うぷぷぷぷ」
「アザミ様、あまりそのような言い方は……」
「バカをバカって言って何が悪いんだよ? キサマは水を見ながら油って言うのか? その目は事実をまともに観測出来ない不良品か?」
「もういいです。言い返した私がバカでした」
「最初からそうして認めればいいんだよ」
画面の白い文字が『clear』に変わり、スクロールが止まる。さっきから二分と経ってねぇや。想定より早く突破されるとか、よわ。
「
「もうハッキング出来たんですか?」
「ん。クソ雑魚。ゴースト全部食い殺せるレベル」
「ゴースト? インビジブルのことですか?」
「パックマンだよ。パワークッキー食べてゴーストがイジケ状態になるのはステージ18まで。この前説明しただろが、バーカ」
「なんで十二歳の子供があんな古いゲームに詳しいんだ……」
「ナムコが世界に誇る名作だぞ。常識だろ。とりあえず、突破したパスワード送るぞ。あとはそっちで何とかしろ」
「ありがとうございます」
平塚は頭を下げると報告をしに部屋を出ていった。
国際的犯罪組織インビジブル。そいつを壊滅させることがアタシの役目。世界平和とか罪なき人を守るとか、そんな甘ちゃんな考えには興味ない。
ただアタシはゲームに勝つ、それだけ。
しかし、アタシの天才的技術を買われてこの諜報機関に入ったはいいが、どいつもこいつも雑魚すぎる。
なんであんなの倒せねぇんだ。バカなのか?
ま、そんなバカよりは優秀だったクソ雑魚がどんな秘密ため込んでやがるのか、拝んでやるか。次の仕事が来るまで暇だ。
「ん? To die list?」
この拡張子、エクセルか。にしても変な名前だな。直訳すると、死亡予定者リスト? なんじゃそりゃ?
今のアタシは向こうの管理者も同然。まぁ見ても問題ないだろう。
実行コマンドを押して表示。現れたのは無数のフルネームと生年月日と死亡予定時刻と死因。
ハッ、ふざけてやがる。予言者にでもなったつもりか?
それとも新手の大量虐殺計画書?
インビジブルってのはこんな残念な奴の集団なのかよ?
「ん? はぁ!」
エクセルに重なるように黒いウィンドウが増殖していく。なんだこれ? アタシなんのコマンドも実行してねぇぞ? どうなってるんだ?
「おいおいおいおい! なんでデータが消え始めてるんだ? 攻撃されてんのか?」
何が起きてんだ? エクセルを開いただけなのに? VBRにウイルス仕込んでたのか?
有り得ねぇだろ! 誰が好き好んで自分のサーバーにウイルスつきのファイル置くんだよ? 開いただけで実行されるとか自殺行為だろ!
「クソ! 止まれ! 止まれ!」
ガラガラ、ドーーーン!
は? 雷? ここに落ちたのか? メッチャ凄い音したし、すげー揺れたぞ?
しかも電気が消えて、アタシのディスプレイも……。
「電源落ちてんじゃねぇか!」
「アザミ様! アザミ様! ご無事ですか?」
平塚がスマホのライトを片手に部屋に飛び込んでくる。薄暗い部屋をLEDの白い光がぼんやりと照らす。
「無事なように見えるかああああ!」
「ええ?」
机の上のハサミを掴み、枕にぶっさす。中に手を突っ込んで、ふわふわの羽毛を平塚に投げつけた。
「電源が! 落ちた! 何てこと! するんだ! 死ね! 死ね! 死ねえええ!」
「アザミ様! おやめください! それでは部屋が汚れて……」
「全部キサマのせいだ! 部屋が汚れんのも! キサマが羽毛まみれになんのも!」
枕を投げつけると平塚は驚いてしりもちをついた。きょとんとしてやがる。
まだ何が大変なのかわかってねぇのか、あのアホ面。
「この前点検やったのキサマだろ。アースはちゃんと接続したんだろうなぁ? 非常電源はどうしたんだ? 万が一過電流でデータ飛んだらごめんなさいですまねぇんだぞ!」
「点検はリストにあった通りにやりました。恐らくは想定以上の強力な雷を受けて、システムが不具合を」
「だったらさっさと復旧しろ。アタシは寝る」
「かしこまりました」
イラつくイラつくイラつく。役立たずめ。ふて寝しようとベッドに背中を投げ出す。
「平塚、枕がない」
「そりゃあ今ハサミで裂いて中身ぶちまけましたからね」
「枕がないと寝れねぇだろ。新しいの持ってこい」
「システムの復旧が済み次第、速やかにお持ちしますよ」
平塚はいなくなった。
ピトン、ピトンって呑気な音が聞こえる。雨漏り、さっきより酷くなってるな。
それにしてもなんだったんだ、死亡予定者リストとかいうの。こちらに攻撃されることでも先読みしてたのか?
VBRは止めるとして、あの内容、もう少し調べる必要があるな。
外ではゴロゴロと雷が鳴っている。
全く、空もこんなになるまで電気エネルギー溜め込んで何してんだか。物事は均衡に向かうものだろう? なんで偏りたがる?
「生命……放射性炭素……ベータ崩壊……」
まぁ、偏りなんてのはそこら辺に存在してるか。アタシも偏りの中から生まれた存在だ。
薄暗いのにも目が慣れてきた。
暇だ。口寂しい。
机に無造作に置かれたレジ袋に手を伸ばすと、最後の一本のロリポップがあった。フィルムを剥いて、口に入れる。やった、チェリー味だ。
味、舌の上の味蕾に物質が吸着することで発生する電気信号の集合体。物質が移動するのは唾液のお陰。唾液の主成分は水。
水は非常に優れた極性溶媒だ。砂糖も、空気中の塵も、溶かして自分を変質させる。
ペーハー値7、水は本来完全な中性のはずだが、現実で計測するとその数値は小さく出る。空気中の二酸化炭素を溶かしてしまうからだ。
なんなんだろうな、水って。
部屋の電気が前触れなく点灯する。ディスプレイにも起動の文字が。案外早かったな。
データはさっきアタシがハッキング成功させた時の段階に戻っているらしい。死亡予定者リストは消えていた。ハッキング先からもログアウトしてる。ま、もう一回入ればいいわけで。
「は? どこいった?」
ない。あのふざけたネーミングのファイルがない。どういうことだよ? ハッキングに気づいて消去したか? 消す意味あるか? てか気づくか? 意味わかんねぇ。
ま、実はアタシがデータ何個か飛ばしてましたなんて言ったらどんな顔されるかわかんねぇしな。
結果オーライってことにしとくか。エクセルの一ページ目は全部暗記してあるし。
「アザミ様、新しい枕をお持ちしました」
「ん」
平塚はベッドに枕を置くと、飛び散った羽毛を掃除し始めた。
「なぁ、平塚。雷はなんで発生するんだ?」
「空気中の氷の粒子がぶつかり合い、静電気が発生するからでしたか?」
「水は絶縁体だ。電荷の偏りはない」
「電解質があるんでしょう。空気中の塵を取り込んでいるんですから」
「現実の水は電気を通すって?」
「そういうことです。というか、要りませんよね。アザミ様にこの程度の説明など」
0.00数%の不純物のせいで性質が変わる。絶縁体は伝導体になる。実際、電気抵抗率18.25×10^6Ωcmの理論純水なんてのはこの世に存在しないんだ。
雨漏りを受け止めたコップを手に取る。屋根裏を通ってきた水はすっかり汚れて、薄めた血みたいな褐色をしていた。
こいつは水だ。不純物の入った水だ。
水は飲んでも体に害はない。全体の99.99%が水で出来たこれは、0.00数%の不純物に勝つのか負けるのか。
徐に、褐色の水溶液に口をつけてみる。
「う……おええ……」
「アザミ様! 何をしているんですか!」
「平塚、これ、クソまずい」
「当たり前です! ああ、もう。病気にでもなったらどうするつもりですか! 頭おかしいんですか!」
頭おかしいか。最初に言ってきたの、誰だったっけな。
「なぁ、アタシは頭がおかしいか?」
「もしかして、怒っているんですか?」
「質問してんのはアタシだ。答えろ」
平塚はまた剃刀負けした鼻の下を掻いてる。そんなに触ると化膿するぞ。知らねぇぞ。
「私は……アザミ様を天才だと思っています」
「ほう、言うね~。何、ご機嫌取り? 頭おかしいって言ったこと反省してんの?」
「私は凡庸な男ですから。アザミ様が何を考えているのかわかりませんし、何がわかって何が理解出来ないのか想像もつきません。そういった意味で天才だと思っています」
「凡庸の対義語は天才ってか?」
「天才の対義語が凡庸であることは間違いないと思います」
「やっぱりご機嫌取りじゃねぇか。平塚の分際で論点のすり替えするな」
「天才だと思っているのは本当です。アザミ様が来てからインビジブルの調査は飛躍的に進みました。アザミ様がいなければ今日までの功績は上げられなかったでしょう」
「ここにいるのは揃いも揃ってバカだからな」
「一応厳しい試験を突破した精鋭ばかりなんですがね。ですが、アザミ様が入ったことで間違いなく我々は強力な組織になりました」
平塚はアタシの手から雨水の入ったコップを取り上げると、見せつけるようにアタシの顔に近づけた。
「不純物が入ったことで、ただの水が毒の水となったように」
毒の水か。やはり99.99%は0.00数%に及ばないと。
「平塚にしては悪くない意見だな」
「恐縮です」
「ハッ! そうだ。アタシは天才だ。世の中は不平等だからな。不平等ゆえにアタシは天才なんだ! 平等なんて幻想! 均衡を目指すはずの世界も偏りを生む! 天才だ、大天才だ! 全世界六十億人いる人類の中の0.0000……数%のアタシがその他大勢を変えてやるんだ! 見ていろ、平塚! インビジブルなんて即解体させてやる!」
「頼りにしています」
珍しくいい気分だ。ハハハ、今ならどんな鉄壁だって崩せらぁ。
ギュルルルル。
あれ? 腹が、変に鳴って……。
「平塚、腹痛い」
「あんな物飲んだら当たり前です。薬を持ってきますから、待っていてください」
「甘いシロップの奴、希望」
「生憎ですが、苦い錠剤しかありません」
やれやれ、アタシの体も0.00数%に負けたようだ。
〈終わり〉
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