二日目。朝起きてからまたあの六畳一間の白い壁が見えた瞬間、慌てて飛び起きて頭を打った。同じ夢の世界に二日もとどまるなんて、初めての経験だった。彼は早起きだったので、既に起きていた。

「おはよう……?」

眉を顰めながらそう挨拶してくる彼に、暫くの間返すことができなかった。返事のできない私を見兼ねて、彼は弱々しく微笑んだ。


「……移動、できないんだね。」


その言葉に、強く動揺した。やはりこの世界は二日目だった。今まで、一度経験した夢の世界に再度入ることすらなかったと言うのに、連続で夢が被るというのは全く理解ができなかった。


 彼は、私が居座り続けることに一切の嫌悪を示さなかった。私も、部屋の外に出ることもできたはずだというのに、その厚意に甘えて部屋に居座り続けた。

 二日目も、一日目と同じく話をせがまれれば話して、それ以外の時間はじっと考えごとをした。目を閉じても、一向に移動する気配はない。暗い暗い思考に沈んでしまうだけだった。

 

 そして、当たり前のように夜が来た。


 当たり前のように朝も来た。



 三日目。目が覚めた後に視界に入り込んでくる彼の背中に、落胆を覚えた。私はもう、夢の中を放浪できないのかもしれない。その恐怖に、起きた瞬間何も言葉を発することができなかった。彼は、言葉の出ない私の背中を摩りながら、移動できるようになるにはどうすれば良いのかを考えてくれた。その日から、私は彼に勧められて本を読み始めた。教養も学歴もないのに文字が読める私に、彼は驚いていた。



 四日目も、五日目も、同じように来た。変わることと言えば、おはようの一言が段々と滑らかになっていくだけ。

 現実は、こんなにもつまらないのか、と落胆した。何もすることがない。放浪ができない。つまらないの裏側に、安心があることを、私はまだ気付いていなかった。

「……ある程度成長したら、流浪が止まるとか、そういうことってあるの?」

机に向かって動かす手を止めて、彼はふとそう呟いた。私は、本の文字を目で追いながら、どうなんだろうね、と首を傾げる。

「……先ず、夢を放浪することに関しては誰からも指導を受けてないからさ。教育、っていうの? そういうの、何一つとしてないんだよね。だから、分かんない。」


「……これから、もし流浪できなかったら、どうするの?」


一番聞かれたくなかったことだった。楽観的に考えたとしても、行く当ても身寄りもないので、どうすることもできない。


一瞬、ほんの一瞬だけ、この世界で息絶えれば違う夢の世界に行くことができるのだろうか、と考えた。雨曝しの中、野垂れ死んでしまえば、違う世界に飛ぶことができるのだろうか。それは、想像もつかない程苦しいのだろうけれど。

物騒な思考を巡らせる脳に疲れて、こめかみを強く揉んだ。

彼は、眉尻を下げてこちらへを見つめてから、やりきれないようにまた机の上に目を向けた。


「……夢の世界の流浪って、楽しい?」

「楽しいよ。」

「戻りたい?」

「戻りたいよ。」


希望だけ募らせても意味がないことは、充分に分かっているつもりだった。

 放浪するということは、基本的に受け身という状態だ。辛い思いも、苦しい思いも、重い決断も、責任も、選択も、何一つない。綺麗であるだけの世界を、次々と体験していく。それを文字に起こすことも、絵にすることもない。その景色は自分の頭の中にどんどん溜まっていくだけ。私には、何もする必要がない。それは、現実世界よりもずっと楽だった。

 変わらない風景、逃避すらできない、圧迫された空間。六畳一間。

 丁度その一間に、窓から夕陽が差し込んだ。橙色の夕陽は、溢れ出さんばかりに窓から侵入し、部屋全体へと染み渡っていった。

 

 六日目。私は初めて、泣いた。戦火の中友人が死んでいく姿も、海に溺れそうになったときも、どんな夢の中でも決して泣かなかった私は、初めて泣いた。

 何に泣いているのか、途中から分からなくなった。強い孤独に塞がれた、心に空いた穴が、どんどん広がっていくような、不思議な感覚だった。

 彼は、ずっと背中を摩っていてくれた。そして、耳元で、優しくこう言った。

「……君が望む通りで良い。だけれど、僕はここにいてほしい。戻ってきて欲しい。」

いきなりのその言葉は、強く鼓膜に響いた。どこへ戻ってきて欲しいのか、詳しく聞こうとしたけれど、彼はそれをやんわりと止めた。きっと、聞いてはならないのだろう。そう思って、口を閉ざした。


ここは、『夢の中』なのだ。

放浪はできないにしろ、ここは『夢の中』。

数え切れない程の沢山の駅があって、その一つの駅で列車が停まってしまったようなものだ。ここはまだ、駅の中。『夢の中』。

「……夢の、中。」

彼の困ったような顔を見る度、窓から見る風景が変わっていく度、つまらない文字列を追っていく度、その確信は強くなっていった。

 どうして列車が停まってしまったのか。

 どうして移動ができなくなってしまったのか。

 

 混乱し始める思考を、全て彼に話した。彼は、親身になって聞いてくれた、

「……それは、降りなければいけないからじゃないかな。」

私の話を聞き終えて暫くしてから、彼は呟くようにそう言った。

 時刻はもう夜だった。積極的な陽の光は嘘のように消え去り、代わりに月光が静かに部屋を照らしていた。彼は、夜に部屋の蛍光灯をつけたがらなかった。人工的で、疲れるらしい。

 記憶の中に、『月の光』というピアノ曲があったのを思い出した。これもまた、どこかの夢で聞いたことがあるのだろう。ドビュッシーの曲だった。最初から最後まで、繊細に思い出すことができた。そっと心に染み渡る、静かで滑らかなその曲は、この六畳一間にぴったりの曲だと思った。

「……降りなければ、」

彼の言葉を復唱すると、頭の中に流れていた月の光のメロディが一瞬にして止まった。


 私の顔が強張っているのに気を遣ったのか、彼は目を伏せて首を横に振った。それは、無理に理解しなくても良い、という意を示していたのだと思う。

 改めて見ると、彼の睫毛は男性にしては長く、伏せられた横顔は、とても綺麗だった。それを見ながら、私は長い沈黙に身を委ねて、言葉を選んだ。自分で何かを選ぶのは、随分と久しぶりだった。夢はどうせすぐ終わるからと、自分に不利であっても、決断を迫られたときでさえ、長い間思考することも、選ぶこともなかった。


 久しぶりの感覚であるということ自体に、何だか説明のできない違和感を感じた。遥か昔に決断と選択を経験したことがあるというのだ。いつ、どこで、どうして。

 何も思い出せなかった。それと同時に、自分に帰る場所があることを強く確信した。放浪することは、私の本当の姿ではなかった。

 降りなければ、ならない。

 強くそう思ったのも束の間、まだ自分の中に少しの甘えがあることも感じた。


「……降りたく、ない。」


口に出すとそれが永遠に現実となる気がしてならなかった。

 私がそう言うと、彼はいつものように、困ったというように眉尻を下げ、それでも笑みを浮かべてこちらを見た。


「……そっか。」


どこか悲しそうな、どこか寂しそうな、諦めの混じったその表情に、何だか自分が悪いことをしたような気がした。所謂、罪悪感というものなのだろう。


二人の間の会話が途切れた瞬間、見計らったかのように頭の中に『月の光』が響き始めた。

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