第65話 別れ
医療センターの入り口は締まっていたので、二人は緊急搬送口に向かった。すると、受付の奥の廊下から、担当医がやって来た。
「やあ、二人とも久しぶり。その様子だと、覚悟してきたみたいだね」
担当医の言葉に二人は意図せず同時に頷いた。
「先生、薬は届いてますか?」
「うん。届いているよ。今から部屋の準備をするからね。それまで、ここで待っていてくれないかな? あと、話ができるのはこれが最後になるから、悔いが無いように話しておくんだよ」
「……はい。分かりました」
夏樹は頭を下げると、近くにある椅子に腰を下ろした。
隣に、冬陽がちょこんと腰を掛ける。
少しだけ、静寂が廊下に降りる。
何か喋らないと。そう思っていた夏樹の左手が、冬陽の右手に包まれる。
「……冬陽?」
隣に腰掛ける少女に目を向ける。冬陽は、少し俯いていた。
左手が、かたかたと震えている。その振動が、夏樹に伝わる。
「……怖いのか?」
「……うん。さすがに、ね。だから、あの医者が帰ってくるまででいいから、手を……握ってもらってもいい?」
震える声の冬陽に答えることなく、夏樹は冬陽の左手を優しく包み返した。
このまま黙ってたら、冬陽の不安は和らがない。夏樹は無理やりにでも口を開いた。
「……小日向や若菜ちゃんは、呼ばなくていいのか?」
「うん。もう、伝えたいことは伝えたから」
「そっか……」
「動画も撮ったし、またわたしが恋しくなったら見てね?」
「いつの間に……」
「ふふん。若菜と遊んだ後に、実は撮ってたんだよね。若菜さんも似たようなことをしてたって聞いたし、やっぱり自分が生きた証拠くらいは、元の冬陽にも見せたいしね」
「……だな」
「あっ、お兄ちゃんに見てほしい動画は二つあるんだけど、片方はお兄ちゃんの夢が叶った時に見てほしいかな」
「そか。って、夢ってなんだよ。俺には夢なんて……」
「いや、冬陽には分かるよ。お兄ちゃんが将来どんな職に就いてるか」
「なんで俺に分からないことがお前に分かるんだよ」
「だって、わたしお兄ちゃん大好きですし? 好きな人の好きなことくらい余裕で分かりますし?」
ドヤ顔で胸を反らす冬陽に、夏樹はジト目で無言の反論をかます。
最期までいつも通りだなと、思わず苦笑しそうになった。
「しかし、悔しいなあ」
「ん? どったのお兄ちゃん?」
「いやな? 最後までお前に料理を『美味しい』って言わせられなかったのが残念でさあ」
「それは残念だねー。惜しいねー。もう少しだったんだけどねー」
掠りもしないと言いたげないい加減さで冬陽は笑う。
悔しい。勝ち逃げされるのが非常に悔しい。
「お前、覚えてろよ。絶対料理は上手くなってやるからな! 冬陽の中で見てろよ!」
「はいはい。楽しみにしてますよー。まあ、全人類の舌を唸らせるほどじゃないと、わたしの肥えた舌は満足しないだろうけどねー」
「ほう? 今の言葉、忘れるなよ?」
「忘れないよ。元の冬陽が、きっと覚えてる」
キリっと、シャキーンといった効果音がしっくりきそうなドヤ顔を冬陽がかます。
それが、何故かとても笑えた。
「っぷ。くっふふふふ! なんだよそれ! かっこいいと思ってんのか?」
「ちょっ! かっこよかったでしょ!? なんで笑うのよー!」
夏樹はひとしきり腹を抱えて笑うと、不満そうに頬を膨らませる冬陽に告げた。
「俺、冬陽と出会えてよかった」
「え?」
「冬陽と出会えたから、俺は変われた。料理に洗濯、それから、女の子の扱い方も……」
「最後のは、まだまだ精進しないとだけどね」
「うるさい。でも、それもこれも全部冬陽のお陰だ。ありがとな」
「そう、面と向かって言われると……結構恥ずかしいよぉ」
耳まで真っ赤にした冬陽は、ぷいっと顔を背けた。後ろのポニテがふわんと揺れる。
再び無言になった。そんな時、廊下の向こうからスリッパを擦る音が聞こえてきた。
担当医が、数名の看護婦を連れてやって来た。
「準備ができたよ、二人とも」
いよいよこの時が来た。夏樹は、無意識に拳を握った。
「投薬方法は事前に説明した通りだよ。点滴で数時間かけて投薬する。投薬が始まってすぐに眠くなる。そして、朝までには元に戻るだろうね。さあ、付いてきて」
担当医に先導されて二人は廊下を歩く。やがて、点滴室と呼ばれる場所についた。
「さあ、冬陽さん。着替えたらベッドに横になってくれるかい?」
「はい。分かりました」
ベッドを囲むカーテンの中で着替えた冬陽は、ベッドで横になっていた。
夏樹は、その隣の丸椅子に腰かける。
「それじゃ、針を通すからね」
担当医は看護婦に指示する。看護婦はいつも通りに冬陽の腕関節に針を通した。
最期の時が、いよいよ近づいている。だからこそ、夏樹はただ無言で冬陽の手を握った。
冬陽が怖がらないように。悲しまないように。
「あ。言いそびれてたんだけど」
ふと、冬陽が口を開いた。
「わたしも、お兄ちゃんに出会えてよかった。お兄ちゃんを好きになれてよかった。この一か月、とっても楽しかったもん。だから、この一か月で知ったお兄ちゃんのことを、全部元の冬陽に教えてあげる。んで、もし元のわたしとお兄ちゃんが喧嘩したら、脳内会議で議長になってやるんだから」
「お前が議長になると、元の冬陽が凶暴化しそうだ」
「なにおう」
頬を膨らませる冬陽は、非難するように夏樹を見上げる。
一方、担当医はパックの中の薬が針を通して冬陽の身体の中に入っていくことが分かると、夏樹に視線を向けた。
「もうすぐ、冬陽さんは眠ってしまうけど、最後にかける言葉はあるかい?」
最後にかける言葉。そう言われて、何を言おうかと吟味していると、冬陽がとろんとした目で夏樹を見た。
「ねえ、お兄ちゃん。最期に……ちゅーして?」
声に力が入っていない。まるで三歳ごろの冬陽のような声で、冬陽は言った。
不意に、涙が夏樹の視界を歪ませる。夏樹は、冬陽の手を握ったまま身を乗り出すと、冬陽の薄桃色の唇に自分の唇を付けた。
あたたかい。冬陽の感触が、夏樹の唇を震わせた。
「冬陽……。さようなら。大好きだよ」
ぼろぼろと涙を零しながら、夏樹は眠りに落ちてく冬陽に告げた。
冬陽は、目を閉じてしまってから、ゆっくりと微笑んだ。
「うん。わたしも大好きだよ。さようなら、お兄ちゃん」
そして、微笑むように……秋月冬陽は、眠りに落ちた。
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