第29話 篠突く雨
夏樹は幸運だった。何故なら、たまご寿司だけが入った半額商品をゲットしたからだ。
それだけじゃない。まぐろとえびの入った寿司セットも20パーセント引きで手に入れたのだ。これには思春期少女と暮らすことで疲弊しきていた夏樹もニッコリだった。
値引きシールを貼っていたおばちゃんに、圧倒的感謝。
「冬陽の食わないあなごとイカタコは俺が食うとして……まあ、予想より安く済んでよかったあ……」
夏樹の財政危機は、こうして名も知らないおばちゃんの手によって一応の解決をみた。といっても、夏樹の昼飯は当分の間百円の牛乳パンだけになりそうだが。
篠突く雨と、水たまりを蹴散らして進む車の音を聴きながら、傘を差した夏樹はマンションへと帰還した。ロビーに入って傘をたたむ。エレベーターを横切って階段を上がると、湿った爪先が冷たかった。不快だ。
階段を上がって家の前に立つと、ポケットから鍵を取り出してドアノブに差し込む。鍵を開けて帰宅すると、そこは真っ暗だった。
窓の無い廊下は、暗く闇の淵のようだった。薄暗い外の光ですら、一筋の光明のようにすら感じるほど、今の廊下は暗かった。
原因は分かっている。夏樹は声を上げた。
「おい冬陽! 廊下と玄関の電気は付けとけって言っただろ!」
傘立てに傘を差し込んで靴を脱いだ夏樹は、濡れた爪先を不快に思いながらドシドシと廊下を突っ切ってリビングに乗り込んだ。
「なあ冬陽! ちゃんと聞いて――」
直後。雷が鳴った。夏樹の身体が一瞬震えた。
雷に驚いたから? 違う。
扉を開け放った瞬間。目の前に冬陽が立っていたからだ。
「……び、びっくりしたあ。なんでそんなとこに立ってんだよ」
夏樹の驚きは当然だった。冬陽は、曇天と湿った街並みを映した窓を背に、リビングにある木製のテーブルに腰掛けて夏樹を見ていた。その双眸に、感情は感じられない。
さすがにおかしい。夏樹もそう思った。
「……おい、どうしたんだよ冬陽。なんかあったのか?」
訊いてみるが、返事がない。部屋に電気がついていないせいで、窓を背にした冬陽の表情が読めない。
少しの間、静寂が降りた。外の雨音は隔絶された向こう側の存在であるかのように雑音へと変貌し、夏樹は冬陽から視線を外せなくなった。それほどの緊張感が、このリビングを包み込んでいた。
「……お兄ちゃんはさ、わたしのこと……好き?」
不意に、冬陽が口を開いた。
「な、なんだよ、急に――」
「わたしのこと、好き? それとも――」
冬陽が小首を傾げた。彼女のセミロングの黒髪が、闇色のカーテンのように揺れた。
「――元の冬陽の方が、好き?」
バサッと、何かが落ちた。
瞠目したまま、夏樹はその落ちた何かを見下ろした。
落ちた何かがパラパラと捲れた。そこには見知った文字。見知った文章。
「なっ――」
夏樹の、日記だった。
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