第28話 前触れ
冬陽の検査は、患者が多かったこともあってか半日ほどかかった。一つの検査に一時間ほどの待ち時間を要し、五つの検査が終わるころには夕方になったいた。
てっきり我儘な冬陽は長い待ち時間にぶーすか言うものだと思っていたが、彼女は終始黙ったまま検査を待って座っていた。それが夏樹にとって意外だった。
医療センターを出ると、外は梅雨の季節の到来を告げるような雨が降っていた。傘を小日向に渡していた夏樹は、小さい折り畳み傘を広げると冬陽が濡れないように注意しながら小走りで駅へと向かった。
電車の中、そして家に着くまでの道の間も、冬陽は黙ったままだった。何度か夏樹が話しかけたものの、その返事も曖昧で流されているのが分かった。何か考え事でもしているのだろうか。それとも、女の子の日だからなのだろうか。
訊くわけにもいかず、夏樹も同じく黙り込んでマンションまで帰ってきた。
ロビーを抜けて、突き当りのエレベーターには乗らずに右へ曲がる。連絡階段を上がって廊下を少し進み、玄関扉に鍵を差し込む。
「……ねえ、お兄ちゃん」
雨音が、しとしととマンションの外で流れる。それに掻き消されそうな冬陽の声が、夏樹の耳に入った。
「なんだ? 検査で疲れたなら、今日は早めに風呂沸かすか?」
鍵を開けて玄関で靴を脱ぐ。それから家に入って夏樹は振り返った。
冬陽は、じっと夏樹を見ていた。少し眉を寄せて八の字にして、口は軽いへの字に曲がっている。そんな冬陽の表情は、我慢……恐れ……怒り。夏樹には判断がつかなかったが、そういったマイナスの感情を表しそうな複雑な表情だった。
「……おい。用があるならさっさと言えって」
冬陽がなかなか話し始めないので、夏樹も少し困惑してしまう。ただでさえ複雑な年頃で時期も時期だ。あまりこちらから催促するのは逆効果だと分かってはいたが、あちらから呼んでおいてだんまりでは、さすがにこうするしかなかった。
沈黙は更に10秒ほど続いた。開けっ放しの玄関から聞こえる雨音が、この家を外の世界から隔絶しているような気がした。
「……お寿司」
「は?」
「お寿司が食べたい」
いつぞやと同じ台詞。しかし、冬陽の声音は以前とは違い、梅雨の湿気のような嫌な気配を孕んでいた。
夏樹は再び揉めることを怖れて、慎重に言葉を選ぶ。
「す、寿司ってお前……昼食っただろ。それに、家にはその用意もないし」
「また食べたい」
変に強情な冬陽の態度に、夏樹は溜息を吐いた。
「あのな? 外で売ってる寿司はネタが決まってるんだ。お前みたいにえびとマグロとたまごしか食わねえ奴には向かねえんだよ」
「それでも食べたい」
「だから金がかかるからダメだ。昼を外食にしたんだから、今晩は大人しく軽めに――」
「いいから! お寿司買ってきてよ!」
有無を言わせない、押し黙らせるような冬陽の声。それには夏樹も動揺した。
なんだ。何故怒っている? 夏樹は混乱しつつある頭をフル稼働して考えた。しかし、その答えは出てこない。
このままでは、また喧嘩になってしまう。
「……わーったよ。買ってくるから、そう怒んなって」
頭を掻いて夏樹は言う。そうすれば少しは機嫌も良くなるかと思ったが、何故か冬陽は眉を顰めてこちらを睨んだままだった。まるで親の仇を見るかのような冬陽の視線。
年頃の女の子は分からん。夏樹はそう思って諦めた。
「ったく、外は雨だっーのに。我儘なお姫様だこと」
部屋に戻って買い物に向かう支度をする。医療センターに持って行ったバッグが重かったので、中身を机の上に出す。
時間つぶし用の本二冊と日記。それらは必要ないので、本を本棚に。そして日記は鍵を開けて引き出しに仕舞い込む。
「早く行ってってばぁ!」
リビングから冬陽の声。我儘冬陽め。そう心の中で毒づいて夏樹は踵を返した。
「はいはい。今行ってきますよー」
部屋を出て玄関へと向かい、靴を履き替えて扉を開ける。雨の音が強くなった。
振り返ると、家全体が少し薄暗いことに気が付く。外を見やると厚くねずみ色の雨雲。
夏樹は部屋の奥にいる冬陽に向かって言った。
「リビングと廊下の電気、つけといてくれー! 頼むぞー!」
しかし冬陽の返事は無く、二度目の溜息を吐いた夏樹はそそくさとスーパーへ向かった。
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