第270話 OLサツキの中級編三日目の酒盛り後半の困惑

 サツキの手首を掴んだユラは、サツキがグラスを持っているのにも関わらず思い切りユラの方に引っ張った。


「ちょっと!」


 グラスの中身がその勢いで少し溢れてしまった。勿体ない、と、サツキの時だったら絶対に思わなかったことを思った。そう考えると、随分とこの身体にも慣れたものだ。順応性に乏しそうなサツキだって慣れるのだから、人間の順応性は素晴らしい。


 サツキは反対の手にグラスを急いで持ち替えたが、ユラは手首を離さない。表情は、相変わらず何を考えているのか分からない様なポーカーフェィスだ。だけど、少しだけ驚いている様な、いや、これは焦りか。


「ユラ、どうしたの」

「今お前、何考えてた」


 怖い。本当にどうしたんだろう。すると、ユラがふっと目を逸した。


「……いや、ごめん。俺が聞いたからいけなかった」

「えーと」


 別に元の世界のちょっとしたことを思い出していただけで、謝られる様なことは。あ、パチパチスライムワインを零した。それかな。


 ユラは、少し睨む様な上目遣いでこちらを見ている。でも分かったかもしれない。これは睨んでるんじゃなくて、ただ単に目つきが悪いだけだ。ちょくちょく目を気にしているから、もしかしたらちょっと視力が悪いのかもしれない。本を普通に読めているとすると、近視なのかも。


「お前に元の世界のこと思い出すなって言っといて、その俺が思い出させてりゃ世話ないよな」

「ああ、そのことね」


 ようやく納得した。そうか、それで自分で自分に怒ってるのかもしれない。別にサツキに怒った訳ではないのに勝手に怖がってしまって悪かったな、と思った。


 ユラは手を離し、立ち上がると台所に雑巾を取りに行ったらしい。すぐに戻ってくると、サツキの腕に溢れたそれを丁寧に拭いてくれた。何だか親みたいだな、そう思ってしまった。男なのにお母さんだ。


 ユラが雑巾を片付けに行ったので、またいなくなった。途端、温かかった心にひんやりとしたものが紛れ込んできた。これは感じたことのある感覚だった。職場でも、家にいる時も、急激にこの感覚が押し寄せることがあった。帰りたい、だ。


 何度も自問自答した。じゃあ一体どこに帰りたいのかと。ただ、ここじゃない、いや、今じゃないということだけが分かった。


 この世界に来てから一度も感じたことはなかったのに、何故今頃この感覚が自分を襲ってきたのか。


 すると、ラムが心配そうな顔をしてサツキの顔を覗き込んできた。


「ラムちゃん……」


 ああ、自分にはこの子がいるじゃないか。そう思ったら急にホッとして、涙が滲んできてしまった。ラムが慌てて飛んでくると、サツキの膝の上に乗りぎゅっと抱き締めてくれた。サツキはラムのその気持が本当に嬉しくて嬉しくて、同じ様にラムを抱き締め返した。そして思った。この子は離せない。この子がいなくなったら、きっとサツキには心から心配してくれる人がこの世からいなくなってしまう。


 それは恐怖でしかなかった。

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