小話五、熱気、暑気、気だるげ 2

  ◇


「あァ…生き返るゥ…」

「大丈夫ですか?」

 マスターが出してくれたのは透明な、少しすっきりする飲み物。冷たすぎずぬるすぎずの丁度良い冷たさで、一気に一杯飲んでしまった。

「大丈夫に、なりました。あざす」

「おかわりいれますね」

 同じものがマスターの手で注がれていく。二杯目は味わうように飲む。まろやかな酸味と甘みとかすかに塩味を感じる。

「これ何です?」

「レモン水です。汗をかいてらしたので、少しだけ砂糖と塩も入れましたので、スポーツドリンクもどきにはなっているでしょうが」

 アタシが入店してきた状況を見て、その場にあったドリンクを作る。以前のマスカットティーの件と言い、マスターの技術力の高さを見せつけられた。

 少し落ち着いて周囲を見渡すと、三つあるテーブル席が埋まっていた。老夫婦がゆっくりお茶をしている隣では大学生らしき人がノートパソコンに向かっている。最後の一つではスーツの男性がアイスコーヒーをちびちびと飲んでいた。

「外が暑いので、涼みに来られる方もいらっしゃるのですよ」

 アタシの視線に気が付いてか、マスターがそう言う。

「有紀さんもそうですか?」

「あァ、アタシは宿題何とかせな思うて」

「ああ、中身は勉強道具ですか」

 マスターがショルダーバッグをちらりと見ながら言う。

「重かった」

「でしょうね。紙類は見た目以上に重いですし」

「ちょっと休憩…」

「そうしてください」

 沈黙。パソコンのキーを打つ音と老夫婦の会話が聞こえる。後ろに流れるのは穏やかなきょう口調のジャズ。汗は引いたが、同時に眠気もやってくる。

 気が付いた時にはアタシ以外のお客の姿はなかった。カウンターに突っ伏してうっかり寝てしまったらしい。

「ああ、お目覚めですか」

「マスター、起こしてくれても…」

 反射的に非難するようなことを言ってしまい、しまったと思う。寝たのはアタシが気が抜けていたからだ。

「ええ、そうですね。目的を考えるとそうでしょうが、あんまりにも心地よさそうに寝てらしたから」

 マスターはクスリと笑いながらそう言う。

「今なら他の方もいませんし、少しくらいなら見ることができそうですよ?」

 マスターは穏やかに笑いながらショルダーバッグを一瞥した。意図を理解したアタシは反射的に頭を下げた。

「オナシャス!」

 そこからはとんとん拍子に進んだ。手が止まっているのを発見するとマスターがヒントを出してくれる。お陰でプリント類が大分片付いた。

 六時近くなり、そろそろ帰るかと思っていると、マスターがぽつりと話し始めた。

「懐かしいですね」

「お?」

「茉実ちゃんが生まれる前、夏休みの自由研究の案を、ここで練っていた時があるのです。ご両親と一緒に。麻結ちゃん、コーヒーのシミ取りの実験とかやってましたねぇ」

「へェ…」

「今、活かされているといいのですが」

 麻結の小学生時代の自由研究という、まあまあレアな情報を聞きつつ、マスターの遠い目を見て、もうその時には戻れないのもマスターは分かっているのだと感じた。麻結の母親はもう死んでいる。かけがえのない日常は壊されたまま戻らない。

「茉実ちゃんが大きくなって、同じような光景が見たいものですね」

 マスターはあきらめていない。一家の日常が違った形でもどってくることを、あきらめてはいないのだ。

「そん時、呼んでくれます?」

「ふふ、どうでしょうね?」

 マスターは否定とも工程ともとらえられる調子でそう答えた。

 そこから少しだけアタシはスケッチブックを取り出してササっと鉛筆を走らせた。

その絵はマスターのもとに置いてきた。麻結と悠一がカウンターに座り、その間に茉実ちゃんが収まり、絵を描いている。両側からその様子をほほえましそうにのぞき込む二人。そんなラフをマスターに渡してきた。清書して、色を付けるのはいつになるか。でもそれも、遠い未来ではないとアタシは思った。

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