第209話 出動・そして避難

 魔法結晶をかざすと、船室の扉は音もなく開いた。

 サイは船室の中央にある操船席に歩み寄ろうとして、無人のはずの船内に思いがけない人影を見てびくりと歩みを止める。

 シートはかすかなきしみ音と共にゆっくりと回転し、やがて見覚えのある背の高い女性の全身があらわになった。


「やあ、久しぶりだね、サイプレス・ゴールドクエスト君」

「あ……女神様!!」


 暗闇に浮かぶ、まるで陶器のような滑らかな肌。感情の見えにくいガラスのような瞳。

 作り物のようなその容貌かんばせはやはりどこか異質で、何度見ても心臓に悪い。


「どうやってここに……」

「ああ、もともとこの船は我々の技術に類するものだからね。この程度の解錠ピッキングは造作もない」

「え?」


 サイは女神の言葉がすぐには理解できなかった。いや、ちゃんと聞こえてはいるのだが、それがまっすぐ頭に入ってこない。

 ヘクトゥースの密輸に絡み、今や明確に敵である勢力と女神がどう関係すると言うのだろう。


「あの?」

「ああ、すまない。説明が足りなかった。我々の技術をして建造された……と言うべきだったな」

「我々の……神の技術?」

「そう」


 女神はサイが無意識にこぼした言葉に大きく頷くと、組んでいた足をほどいてすいと立ち上がり、サイを手招きした。


「とりあえず船を出した方が良くはないか? このままこの場に浮かんでいても時間がもったいないし、何より不審に思われるだろう?」

「あ、確かにそうですね」


 誘われるまま女神と入れ替わるように操船席に座り、目の前のコンソールにこれ見よがしにあるくぼみに魔法結晶を押しつける。予想通り、船室に小さく明かりが灯り、ディスプレイが一気に息を吹き返した。


「ところで、君は船の操縦ができるのか?」

「あー、とりあえず知識だけはあるのですが……」


 かつて、理彩の世界で手当たり次第に乱読した本の記憶から小型船舶の操縦手順を思い出しながら女神の顔を見る。


「なるほど、それではお手並み拝見といこうか」


 女神は腕組みをしたまま小さく頷き、まるでサイを見守るように真横に並んだ。

 サイは手のひらの汗を腿にこすりつけ、まずは当てずっぽうで舵を確かめてみる。操作するたびにディスプレイの表示が変化するが、次々に浮かんでは消える文字にまったく心当たりがない。


「……やっぱり読めないな」


 この船が確かに異世界の技術に根ざすものであることを今さら実感しつつ、舵の右隣にある二つ並びのレバーのうち、まずは前進、後退の切替らしきレバーに手を掛ける。


「これか?」


 前後にガチャガチャと動かしてみると、そのたびに船室の灯りがわずかに明るさを変え、足元から伝わってくる微振動が変化する。サイは手応えを感じて小さく頷く。


「では、行きます」


 女神が無言で頷くのを横目に、サイは前方の海面に障害物がないことを確かめ、隣のレバーに持ち替えて少しだけ押し込んだ。


「うん?」


 一拍遅れて、船尾からゴーッと豪雨のような鈍い音が響きはじめ、背中が押されるような感覚と共に船はゆっくりと動き始めた。サイは面舵おもかじを切ってディレニアから大きく距離を取り、次に湾の出口に向けてゆっくりと左に舵を切り返す。


「ふむ。初めてにしては上出来だ」


 女神は満足そうに頷いた。


「それより女神様——」

「判っている。頭の中は疑問で一杯だろう? 会敵するまで多少時間がありそうだ。何でも聞くといい。ちゃんと説明する」


 女神は鷹揚に頷くと、まるで彫像のようにも見えるアルカイックな笑みを浮かべて見せた。





「皆さーん、歩ける人は徒歩で、足元が不安な人は近くにいる兵士に声をかけてください。時間がありません! 荷物は持てるだけ、持てるだけでお願いしまーす!」


 深夜のゼーゲルは、突然出された避難命令で天地がひっくり返るような大騒ぎだった。

 それまで横暴を尽くした魔道士部隊から隠れるように潜み、ようやく普通の生活が再開できると思った矢先の出来事に、つい感情的になってタースベレデ兵に食ってかかる住民もいた。

 だが、応対した兵士が黙って空を指さし、無数に浮かぶ不気味な光柱を目にした途端、誰もが顔を青くしてそれ以上の言葉を失う。

 そんな状況を、スリアンは親指の爪を噛みながらじっと見つめていた。


「殿下、港通りの住民は全員防壁を越えたと報告がありました」

「殿下、商業組合ギルドの責任者と申す者が、詳しい説明を求めて参りました」


 入れ替わり立ち替わり報告に訪れる兵士達に短く次の指示を行い、現れる面倒な来客に対応する。そんなことを繰り返すうちに時間はまたたく間に過ぎ、スリアンの親指の爪はいつしかボロボロになっていた。


「殿下、お茶をお持ちしました。どうか一息入れてください。」


 セラヤがフォルナリーナにもらった〝緑茶〟のカップをトレイに載せて現れた。香ばしい茶葉の香りが湯気と共に立ち昇り、ささくれだったスリアンの心にじんわりと染み入る。


「サイはもう戻ってきた? 連絡は?」


 無言で首を横に振るセラヤ。それを見て再び無意識に親指を口に運ぼうとしたスリアンは、その手をやんわりとセラヤに押し止められる。


「ご心配は判りますが、どうかお心を安らかに。これまでだってちゃんと帰ってきたじゃないですか」

「でも、そのたびに大ケガしてたんだよ!」


 出発の前にもう少しちゃんと話しておくべきだった。スリアンは内心で後悔するが、今となっては後の祭りだ。


「……サイ、お願いだから無事に戻ってくれよ」


 スリアンが思わずつぶやきを漏らした瞬間、水平線の向こうからまばゆい炎の筋が何本も立ち上がった。

 それはまるで祝祭の打ち上げ花火のようにゆるい弧を描いて空高く立ち昇り、頂点に達した後はどれも同じ方向……こちらに向きを変えた。

 粛々と避難を続けていた群衆からどよめきが上がり、恐怖に耐えきれなくなった女性の悲鳴がいくつも響き渡った。

 それがきっかけになった。

 それまで整然としていた避難の列が乱れ、誰もが我先に少しでも港から離れようと走り始めた。


「騎兵! 走らせて構わないから前に出て速度を抑えろ!!」


 スリアンが叫び終わらないうちに数騎が動き、群衆を両側から挟むように先頭に駆け上がっていく。

 だが、その間にも炎の矢は確実に近づいて来る。


「……サイ」


 スリアンの口から思わずつぶやきが漏れた。

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