第116話 混迷するサンデッガ
「サイプレス・ゴールドクエスト魔導伯、だと!!」
サンデッガ王宮、魔法庁長官室。
先日タースベレデが国内外に公布した情報をめぐって、サンデッガの王宮内は激しく揺れていた。
中でも一番衝撃的だったのは、タースベレデ軍司令部付従軍魔道士の名前として、サイプレス・ゴールドクエスト伯が示されたことだった。
「タースベレデが最後通牒を蹴ってくることは想定の範囲内だ。徹底抗戦を叫んで体制作りをすることも含めてな。だが、こいつは一体何だ!?」
大魔道士アルトカルはタースベレデの使者が置いていった国書の写しを床に投げ捨て、大声を上げた。長官室付秘書の女性魔道士が怯えた顔で書状を拾い上げ、おずおずとトレイに戻すのを見てさらに激高する。
「サイプレスといえば、以前内務卿が暗殺した若造の名前じゃないか。なぜ奴の名前が今頃ここに出てくる!?」
怒鳴るように尋ねられても、秘書には答える
「大至急、こいつの素性を調べさせろ! あと、先日のカランタス伯殺しに関係していないか、それも調査だ!」
「は、はい!」
「それから、ゼンプ・ランスウッドはどうした!?」
「失踪しました。学校の方にも戻っておらず、召使いも、従者として共に入学した女生徒も姿が見えません」
「何だと!? 奴は多重魔方陣の安定現出に不可欠な人材だったのだぞ!! なぜみすみす見逃した!?」
「そう申されましても……」
「クソッ、もういい! さっさとサイプレスの調査に取りかかれ!!」
「はっ」
秘書は逃げ出すように長官室を出た。
あのまま怒り狂ったアルトカルと同じ部屋にいるのは気詰まりと言うより、もはや本能的な恐怖が先に立つ。
この数年でアルトカルはめっきり怒りっぽくなった。もしかしたらそれは、彼自身の魔法力の衰えにあるのではないかと秘書は密かに疑っている。
六年ほど前、彼が完成させた大魔法、天候改変術式はその後一度も再現できず、それ以後唯一の成果といえる多重魔方陣の発現も、画期的だとは思うものの、新たな大魔法には繋がっていない。
「ずいぶんお偉くなられたけど……」
秘書は小さくつぶやくと、アルトカルからの指示を魔道士団に伝えるため王宮を飛び出した。
魔道士団の大部屋はもぬけの殻だった。団長室も同じく空だ。
だが、魔道士団内で最近流行りのお茶の香りがかすかに残っている。誰かが少し前までここにいた名残だ。
「だとしたら、訓練場かしら」
秘書は部屋を突っ切り、奥の扉から裏廊下に抜けると、建物裏の訓練場に出る。
「え、何?これ」
だが、目の前の光景は秘書の想像を超えていた。いつも整然と整備されている器材庫の扉は開け放たれて中の器材が乱暴にぶちまけられ、続く運動場はまるで大嵐の直後か魔獣の襲撃を受けたかのように荒れ果て、あちこちに人がすっぽり入れるほどの大穴があいている。
「一体、何が!?」
困惑する秘書は、運動場の隅にうずくまっている一団を目にして駆け寄り、その惨状に気づいてさらに混迷の度合いを強くする。
「皆さん、一体何があったんですか!?」
「ああ、君か」
その時、ずたぼろの集団の中から聞き知った声が発せられた。
「って、団長!?」
秘書はその姿を見てさらに眉をひそめる。
「一体全体どうしてこうなってるんです?」
「ああ、対人戦闘訓練だよ」
ずたぼろの団長はあっさりそう言って笑い声を上げる。
「どうだい、凄い威力だろう。先週末から実戦形式を取り入れたんだがね、あのお茶の効果は絶大だよ!」
「レンジ茶を?」
「ああ、先週アルトカル様が持ち込まれた新製品を試しているんだが、見たまえ、この私でさえ雷を何発も放つことができた!」
興奮した様子で両手を広げ、穴だらけの運動場を示す団長。だが、その瞳に浮かぶ狂気めいた光を見て、秘書はかすかな危うさを感じずにはいられない。
「しかし、この有様では……」
「ああ、ここはもうダメだ。狭すぎる。明日からは王都郊外の荒れ地で訓練することにするよ」
微妙に噛み合っていない返事を返す団長の姿に、秘書はこっそりため息をつく。
アルトカルのあとをついで団長になった彼は、魔力こそ他人より少なめだったが、人を引き付けるカリスマと統率力、そして何より年齢に似合わない深い落ち着きを備えていた。本人は自身の魔力の乏しさを気にしていたけど、だからといって誰も彼の団長としての力量に疑いの目を向けはしなかった。
その彼が、まるで路地裏でイキる悪ガキのように興奮してつばを飛ばしながら大声でまくし立てている。
「大丈夫なのですか?」
秘書は自身の恋人でもある団長の、今まで一度も見たこともない歪んだ表情を前にして、思わず尋ねずにはいられなかった。
「何が? この私が? それとも今回の戦争が? 見ればわかるだろう、心配には及ばないよ」
そう尊大に答える団長の目に、目の前の
開戦に湧く王宮の一角。浮ついた空気のまん延する王宮の中で、唯一そこだけはいつもどおりの重々しい静けさが満ちていた。
「始めてしまったことは仕方ない。しかし、王は今次の戦争をどう幕引きされるおつもりなのか……」
そう、いつもよりさらに沈んだ表情で呟くのは外務卿だ。その手には、今朝方主だった重臣に配られたタースベレデからの国書の写しがあった。
「君の分析はどうだ?」
外務卿は目の前に立つ男に尋ねる。
「ええ、恐らく初戦はサンデッガが圧倒するでしょう」
「やはりそうか」
「ええ、新作のレンジ茶で戦力を増強した魔道士部隊に対抗する戦力はタースベレデにはありません。国境の警備部隊に張り付いている魔道士の数は数えるほどですし、国境騎馬隊の練度は高いですが、魔道士相手では分が悪すぎます。ですが……」
「ですが?」
「ええ、ここにある名前が気になります」
男は書状の末尾に記されたある魔道士の名前を指で弾く。
「サイプレス・ゴールドクエスト魔導伯。この名前はこれまでタースベレデの公文書に一度も登場したことがありません。まさに今回、降って湧いたように現れた人物です」
「ふむ」
「にもかかわらず、なぜわざわざ抗戦宣言に名前があるのか? 不思議だとは思いませんか、外務卿?」
「一体何が言いたいんだ、〝マヤピスの遠耳〟よ」
「ええ、我々
「働き次第では?」
「この戦争、大きく荒れますよ」
黒髪の精悍な若者はそう言ってニコリと笑った。
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