83 心の底にある恐怖と勇気を
「はあっ! はあっ!」
通路を走る。必死に、恐怖から逃げるために。アイヴィーは通路を必死に走る。目には涙が溜まっている。怖い、怖い、怖い……私は怖い。弱かったんだ、こんなに怖いと思ったことは……今までに経験がない。
「どこへいくんだ? アイ……ヴィー……アィ、アイ……ヴィー」
ロレンツォの姿をした化け物が触手をバタバタと動かして追ってくる。これは夢? 悪夢? 逃げないと。アイヴィーは腰の剣の存在すら忘れたかのように必死に走る。通路の曲がり角を曲がる……。その先が玄関だった。
「え? え? な、何これ」
通路はずっと奥まで続いている。おかしい。私の屋敷はこんなに広くなかった。記憶違い? 後ろを振り返ると、化け物が追ってきている。逃げないと! この恐怖から逃げないと。アイヴィーは再び通路を走り始める。
「どうして! どうして!」
自らに問いかけても答えが出ない。助けて怖い……。必死に走るアイヴィーの目の前に無常にも壁が立ちはだかる。こんな場所に壁なんてなかった。どう考えてもおかしい。壁を必死に叩くが、硬い壁の感触しか手には伝わってこない。
「アイ……ヴィー……あいつと寝ている時は幸せか?」
振り向くとそこにロレンツォの崩れた顔が迫る。ひぃ! と息を呑んで口を押さえるアイヴィー。ロレンツォが歪んだ笑みを浮かべて、恐ろしく長い舌をずるりと伸ばす。
「お前はとんでもない売女だ。貴族としての誇りを捨て、あのような男と寝ている……」
舌が彼女の頬をベロリと撫で回す。気分が悪い、ああ、なんておぞましいのか。こんな化け物と婚約していたなんて、どうして!
「私は……彼を心から愛している! だからアンタなんかにそんなことを言われる筋合いはない!」
「そうかな? お前はただ自分の快楽を満た……すためだけに、あの男に体を許したのではないか?」
少しロレンツォの顔がぐらりと歪む、まるで記憶の回路を巻き戻すかのように不自然な歪みが生まれる。しかしその歪みも恐怖から冷静さを失ったアイヴィーには理解できない。ただただ怖い、目の前の何かが怖い。
「そうかな? そうかな? ソウカナ? ナラバ」
「やめて! 私を責めるのはやめて! 私は彼と一緒にいたい!」
必死に叫ぶアイヴィー。その時、足元がずるりと動く。え? と下を向くと通路が大きく動いている、まるで巻き戻るように。ハッとして前を向くと、そこは
「え? なに? 何が起きて……」
「どうしたんだい? アイヴィー? そんな大声を出して」
通路のドアがガチャリと音を立てて、一人の男性が現れる。その顔は、長兄アラン。
「今日はお前の婚約者が来る日だろう、もう彼は待っているよ」
優しい笑顔を彼女へと向けるアラン。どういうことなのだろう?さっきまではロレンツォに襲われていたはず。どうして?
「お兄様……ロレンツォが!」
「何を慌てているんだい? さあみんなが待っているよ」
アランはアイヴィーの言葉に耳を貸そうとはせず、クスクス笑って彼女の手を取る。なんだこれは? アイヴィーは混乱して、どうすればいいのかわからなくなっている。
扉がゆっくりと開き応接室に父と、厳しかった母と、カンピオーニ侯爵の姿がある。カンピオーニ侯爵はその威厳のある髭を撫でながら……微笑んでいる。
「ようやく来たか……こちらがお前の婚約者たる、次男の※※※だ。さあ※※※、婚約者にご挨拶をなさい」
これは悪夢だ! アイヴィーは振り向こうとしたその男に咄嗟に抜き放った
「どうして……アイヴィー?」
その声に聞き覚えがあった。アイヴィーにとってとても大事な、愛するものの声。アイヴィーは目を見開く……アイヴィーが
「あ、あ……」
「痛いよ、アイヴィー? どうし……て?」
驚いた顔のまま仰向けに倒れるクリフ。目からボロボロと涙が溢れる。クリフの口から
「あ、わた、私……そんなつもりじゃ……いや……ああああ!」
「ああ、どうしてだいアイヴィー? 婚約者を刺すなんて」
お父様がくすくす咲う。
「アイヴィーったら、やんちゃばかりして……」
お母様も口を押さえて蔑むように咲う。
「おやおや、婚約者のクリフが気に食わなかったかい?」
カンピオーニ侯爵が口を歪めて咲う。
「どうしたんだい? モット突き刺してあげナイト」
アランお兄様がアイヴィーの肩に手を置いて咲う。手に持った剣を皆でクリフに突き刺す。笑いながら、歪んだ笑いで。
どうしてどうしてどうして!泣きじゃくるアイヴィーを前に、皆が咲う。くすくす、ケタケタ、耳障りな笑いがその場に響く。どうして! そんなつもりじゃない!
「じゃあ、やり直ソウか、シカタ無いナ」
クリフが血を吐き出しながら、人形のように起き上がる。そしてケタケタと不気味な笑みを浮かべる。やり直す? どういうこと? アイヴィーが混乱していると、クリフが胸から血を噴き出しながらアイヴィーの肩を掴む。身動きの取れないアイヴィーを見つめるクリフの顔が急に蝋を溶かしたようにどろりと溶け出し、ロレンツォに変わる、そして再びその顔が溶けるとアラン兄様へと変わった。
「!? 何で?」
「じゃあ次はこれだね、イモウト思いの兄、泣かセルネ」
これは……明らかにおかしい、なんだこれは。急速に頭の芯が冷えていく、剣士としてセプティムが鍛え上げた、アイヴィーの心に潜む勇気が混乱を沈めていく。これは……悪夢だ。
「私の……」
「ン? どうしたのアイヴィー?」
沸々と怒りが心を支配していく。
「私の、愛するものを……私の記憶を……」
「あ、チョット……どウしたの? 悲しいキモチを、恐怖をまだタベきってなイ」
「私の頭の中に入ってくるな! 私の愛する人を……私の思い出を汚すな!」
アイヴィーが心から叫ぶ、その叫びに呼応するかのように、目の前の景色がボロボロとパズルのピースのように崩れていく。軽い悲鳴が響く。それと同時に急速にアイヴィーの意識が覚醒していく。
「あ……」
アイヴィーが目を開けると、そこには不思議な生物が
「イタイヨ……イタイ」
不気味に唸るような声でその生物は大きく痙攣すると、動きを止めた。アイヴィーはそこで初めて自分の髪に何かの粘液が付着していることに気がついた。
「うぇ……何これ……」
匂いを嗅ぐと異常なくらい生臭い匂いで、何かのよだれのような気もする。もしかしてこの目の前の生物が取り憑いていたのだろうか。急に嘔吐感を感じてその場に吐瀉物を吐くアイヴィー。
「うゲェええっ……げほっげほっ」
口元を拭い、
「うげえっ、ひどい……匂い……」
散々胃の内容物を吐き出して、ようやく落ち着いたアイヴィーは周りを見る。そこは最初に落ちてきた洞窟を少し進んだところだった。視界の先に、少し灯のようなものが見えている。アイヴィーは再び歩き始める。
「歩かなきゃ……うぷっ」
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