39 堕落への誘惑

「くそっ! あの庶民め!」


 学食の一角でロレンツォ・カンピオーニは大変不機嫌になっていた。

 王国……しかも彼が所属する帝国よりもはるかに小国であるサーティナ王国の庶民であるクリフ・ネヴィルに一騎打ちで負けた、という事実が彼をより一層不機嫌にしているのだ。


 ロレンツォはほとんど負けた経験がない。

 正確にいうのであれば貴族の子弟なのでわざと負けてくれる者もいたのだが、彼の記憶では負けた記憶はたったの二回。

 二回目はいうまでもなく今回、庶民のクリフ・ネヴィルに一方的に何かのでやられた。

 初めての敗北は帝国にいた頃、アイヴィー・カスバートソン伯爵令嬢との剣術試合の記憶だ。


 ロレンツォは当初アイヴィーのことを親が決めた婚約相手、あくまでも形式上の妻になるのだと思っていた。

 ただアイヴィーと初めて会ったときに、婚約相手が……とても活発で明るい笑顔を見せる少女の可憐さ、美しさに驚いた。

 初恋だったのだろう……その後ロレンツォはとても優しくアイヴィーに接していた。親が決めた婚約相手ではなくちゃんとしたパートナーとして接したい、そんな思いが当時の彼にもあった。


 だが剣術の試合でアイヴィーと相対したロレンツォは、彼女の才能を見せつけられることになる。

 その試合でロレンツォは一方的に負けてしまった、一太刀も浴びせることができなかったのである。

 アイヴィーの師匠となった剣聖はアイヴィーの才能を認めるとともに、ロレンツォに「無理に剣を学ぶことはない、君には魔法の才能がある。そちらを伸ばすべきだ」と助言した。

 しかし、ロレンツォはアイヴィーの才能に嫉妬してしまった……実は魔法の才能はアイヴィーよりも高く、実際に現時点、魔法能力だけで言えばアイヴィーは彼の足元にも及ばない。


 そこからアイヴィーへの嫉妬も含めた攻撃がスタートした。

 当初は罪悪感も感じていたが彼の父親がカスバートソン伯爵への文句を日常的に話していたこと、さらに帝国貴族というプライドも悪い方向へと転んだ。あっという間にロレンツォはアイヴィーへの罪悪感を失うことになる。

「婚約者に何を言っても、何をしても許される」

 顔を合わせれば貶し、詰り、そして取り巻きにも同じような態度を取らせることになってしまったのだ。


 一方アイヴィーは婚約者の変化に戸惑ってしまった。

 それまで仲良く一緒に遊んだり、修行や勉強をしていたロレンツォが試合後に豹変してしまったことは彼女の心に大きな傷を残した。

 ロレンツォやその取り巻きに対して反抗することは簡単だったが、家のことを持ち出されると黙るしかなかったのだ。

 何年もそんな関係が続き、逃げるように聖王国魔法大学への留学を希望したアイヴィー。

 攻撃対象が留学を希望していることを知ったロレンツォは同様に留学希望を出した。都合の良いおもちゃを逃す気がないのだから。


「アイヴィーが僕を裏切らなければ……あの時僕に魔導石を渡していれば……このような屈辱を感じることはなかった!」

 ダン! とお茶の器を机に叩きつける。お茶が軽くこぼれるがロレンツォは意に介さない。

 周りの学生たちが腫れ物を見るような目でその場を離れていく。

「そうだ……アイヴィーは僕を裏切った、いや帝国を裏切った。あのような下賤の者と組み僕を陥れたのだ。一騎打ちの時も何かしたに違いない。これは帝国に対する裏切り行為だ」

 だんだん論理破綻をしていく思考だが、ロレンツォはこの論理破綻に気がつかない。長年貴族として甘やかされてきた弊害なのかもしれない。

 ギリギリ……と歯軋りをしながら怒りに身を震わせる。


「……そう。あなたは裏切られたのね」

 あまり感情を感じさせない空虚な声。

 ロレンツォが慌てて振り向くと、そこには黒いローブの女性が立っていた。

「こんにちは、帝国の貴族様。私は本学にて精神の研究に携わる魔道士……ネヴァンと申します。」

「何の用だ」

 目の前に立っているネヴァンと名乗る魔道士は、漆黒のローブを羽織りフードを深く下ろしており、口元以外はよく見えない。

 背は高く……一八〇センチメートル近い長身だが、フードの両脇から薄い桃色の髪を長く垂らしているのと、ローブのシルエットは非常にスタイルのよい体つきをしており、ネヴァンが女性だと認識できる。


「警戒されていますね。私はあなたにお力添えができるかと思ってお話をさせていただきました」

「む……力添えだと」

 ロレンツォはネヴァンの言葉に強く惹かれた。ネヴァンは興味を持ったロレンツォの顔を見て満足そうに笑う。

「はい……私は貴方の復讐の手助けができると思います」

「復讐……?」

 ゆっくりとローブから細い手が覗き、ロレンツォの口元にそっと指を押し当てる。そんなネヴァンの行動を咎めることもなく、ロレンツォはされるがままになっている。

 指が艶かしくロレンツォの唇の上で踊る。鼻腔をくすぐる甘い香り。気がつけばロレンツォは夢中になってその指に舌を這わせていた。


 そして空虚なネヴァンの声がまた響く。

「あなたの怒り……憎しみ……それは我が糧」

 普段のロレンツォであれば周りにいつの間にか誰もいなくなっていることに気がついたかもしれない。

 しかし今の彼は不満と怒り、そして目の前の女魔道士の言葉で周りが全く見えなくなっていた。

「さあ、可愛い坊や。私の言葉を聞きなさい。あなたの大事な婚約者を奪ったあの男と……あなたを裏切って憎き恋敵に走った婚約者を打ち負かす力を差し上げましょう」


「あいつを殺す……僕を裏切ったアイヴィーを殺す。あの男も……」

 ロレンツォは惚けたように同じ言葉を繰り返した。満足そうにネヴァンは笑みを浮かべると恭しくロレンツォの手を取り、そして一緒に歩き始めた。

 ロレンツォの目はネヴァンの言葉のように空虚で感情を写していなかった。


「他愛もない、所詮貴族の子供はこの程度ね」

 ネヴァンは大きく歪んだ笑みを浮かべた。その場にクリフがいればすぐに気がついただろう。


 ネヴァンの笑顔は……あの混沌の戦士ケイオスウォリアーアルピナの歪んだ笑顔にそっくりだったのだから。

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