・牡馬クラシック一走目 五木賞(G1) - 鋼の鷲とイチゴ味にメイド長 - 1/2

その頃、マクダ族の定住地では――


 真夜中、急な尿意がボクの熟睡をかき乱した。

 父さんが亡くなって以来、こんなに眠れたのは久しぶりだ。


 ボクはツィーと二人だけの広い天幕をこっそり抜け出て、月の光を頼りに暗闇のキャンプ地を歩いた。


 トイレで我慢していたものを全て吐き出して、やっとスッキリすると途端に目が覚めてきた。

 耳に届くのは『リリリ……』と響く虫の声と、草木の擦れる微かな物音ばかりだ。


 ボクはしばらく夜の世界に立ち尽くして、何を考えるわけでもなくただぼんやりとした。今でも夢の中にいるような気分だった。


 悪いやつらに草原を奪われて、ついに父さんまで殺されてしまった。昨日までのボクは、いやボクたちは、これからどうやって生きればいいのかすらわからなかった。


 だけど今はバーニィさんがいる。バーニィさんのやさしい笑顔を頭の中で思い描くと、無意識に彼の天幕へと足が勝手に動いていた。


 戻らないとツィーが心配する。今、バーニィさんの天幕を訪ねる理由もどこにもない。

 だけどボクはその場に立ち止まって、どうしても人恋しくて、中のバーニィさんを訪ねようかしばらく迷い続けた。


 バーニィさんがいれば、きっとどうにかなる。

 騎士団最強の男がボクたちを守ってくれる。少しでも恩返しがしたい……。


「ラト、何してるの?」

「ぁ……」


「隣にいないから心配したよ。……バーニィに何か用?」

「な、なんでもないよ……」


「あのオヤジ、信じられんないくらいドスケベだから、ラトも気を付けなよ?」

「う、うん……。でも、本当はツィーだって、来てくれて嬉しかったんだよね……?」


 ツィーは昔からちょっと怒りっぽいから、弟のボクだって気を使う。

 でもボクの言葉に反論はなかったみたいだ。奪われたボクたちの草原を見やりながら、ただ黙ってた。


「まあね……。だって、ここを去ってく人の方が多いもん……。あんなスケベオヤジでも、居てくれたら嬉しいに決まってるでしょ……」

「そうだね……。でもバーニィさんがどうにかしてくれるよ。そしたら、昔の仲間も、きっと――」


「ラト、バーニィは代理だよ! うちらのことは、うちらでどうにかしなきゃ!」

「う、うん……。じゃあ、バーニィさんに、今からそう言う……?」


 ツィーと一緒ならバーニィさんを訪ねても変じゃない。

 だけどボクがそう誘っても、暗くて表情はよくわからなかったけど、ツィーは乗り気じゃないみたいだった。


「止めとく……。だってあのオヤジ、隙見せると絶対お尻とか触ってくるもん」

「ボ、ボクは別に、そういうの、イヤじゃないけど……」


「げぇぇ……趣味悪いよ、絶対それ趣味悪いよ。あんなのおじさんじゃん!」

「でも、ボクはあんなにやさしい人、他にいないと思う……」


「それは、わかるけど……。だけどアレって超エッチ人間じゃん……」


 バーニィさんの眠る天幕を離れて、ボクたちは族長一族の天幕に戻って、動物の子供みたいに姉弟でくっついて眠った。


 バーニィさんがいれば大丈夫。バーニィさんがボクたちを救ってくれる。

 そう思い描くと、重圧に心が折れそうだったボクは、久しぶりにグッスリと眠れていた。



 ・



4月中旬――


 牡馬クラシック春の1レース目、五木賞がついにやってくる。

 ここエナガファームで放牧馬や子馬の育成をしばらく受け持っていた俺は、再びこのホッカイドーを離れて、トーキョ都に向かうことになった。


「いけーっ、働けーっ、バーニィ兄ぃーっ!」

「お前もうじき15だろ……?」


 俺は今、旅の支度をしている。そしてそのお邪魔虫がタルトだ。

 何がお気に召したのやら、お子様にしてはでかいチュウガクセーが人の背中にしがみついて、さっきからワーキャーワーキャーと騒いでいた。


「そうだけどー? 何か問題でもー?」

「いや、お前さんがそれでいいならいいが……」


「あっ、もしかしてバーニィ兄ぃっ、あたしにくっつかれて発情してるっ!?」

「するわけねーだろ……。つーか、お前になんかしたらシノさんにぶっ殺されるわ……」


 図体ばかりデカいガキを背中に乗せたまま、俺は荷物をカバンに詰めていった。

 以前はタルトのお古のランドセルに詰めて行こうとしたんだが、それは警察に通報されるので止めておけと叱られた。


 まあそんなわけで、今はタマキさんから譲って貰った牛皮のなんたらを使っている。

 赤いランドセル、あれはあれで機能的で気に入っていたんだけどな……。


「こんなもんか」

「歯ブラシとか忘れてない?」


「お、おお、そういやそうだったな……」

「あたしが取ってきてあげる! 五木賞がんばってねっ、あたしテレビ見るから!」


「おう。まあ俺の目標はジャパンダービーで、五木賞はただの前哨戦だけどな」

「バーニィ兄ぃなら余裕だよ!」


 ドタバタと家の中を足音が響いて、洗面所の方からそんな叫び声が聞こえた。


「いやそう簡単にもいかねーんだわ」


 ダービーに勝つには距離適正の壁を越えなければならない。これをどうにか出来る馬はそうそういないそうだ。


 馬には生まれ持った筋肉の質があり、全ての距離で活躍できる馬は一部の例外を除いて一頭もいない。タマキさんの受け売りだ。


「はいっ、歯ブラシ! あと歯磨き粉ね」

「おうこれこれ、助かったぜ。俺ぁこのイチゴ味じゃねーと、どうしてもダメなんだよなぁ……」


「あはははっ、変なおじさん!」

「しょうがねぇだろ、スースーすんのがどうしても慣れねぇんだよ……」


 歯ブラシとイチゴ味の歯磨き粉をバッグに入れて、これにて準備完了だ。

 ジッパーを閉めて顔を上げると、そこにシノさんが鍵を片手に立っていた。


「バーニィさん、そろそろ行きましょうかー?」

「あ、ああ……」


 その姿を見ると、急に憂鬱な気分が胸の中で渦巻いた。

 実は俺は、ミント味なんて目じゃねぇくらい苦手な物がある……。


「あははっ、なんか顔青いよー、バーニィ兄ぃ?」

「飛行機、慣れませんかー?」

「当たり前だ……。あんなもん、一生慣れるわけがねぇだろ……」


 目下の敵は、飛行機だ……。

 オニっ子にまた会えるのは楽しみでしょうがねぇんだが、そのためには飛行機に乗らなければならなかった……。


「いってらっしゃーいっ、がんばってねーっ、バーニィ兄ぃっ!!」

「ぉぅ……。どうにか耐えて見せるわ……」


 俺は馬無しで走る鉄の馬車、軽トラに揺られて、鋼の大鷲たちが集う恐怖の地、センサイ空港へと運ばれていった……。

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