第35話 ハンナが体調を崩した

クレアはまだ信じられなかった。自分は特にカタリナと面識があるわけでも、仲がいいわけでもない。しかし生徒会長と言えば学園の顔だ。そのような立場の人が、恋敵に薬を盛るような真似をするのだろうか。マーガレットが戯言を言っているようにしか見えなかった。


「‥どうゆうこと?」


一度は立ち上がろうとしたクレアだったが、テーブルからまた頭を引っ込めて、小さい声でマーガレットに尋ねた。


「ハンナは顔を赤くしてふらふらしていたのだ。体液シフトだろう」

「やっぱり‥」


クレアは手に持っていた薬箱を強く握った。


「それで?」

「生徒会長が、よく効く薬だと言って渡したのだ。それを飲んだら、ハンナは急に気を失ったのだ」

「まさか‥」


確かに体液シフトに効く薬は開発されているが、突然眠ってしまうくらい効き目の強い薬は聞いたことがないし、もしあったとしても医療用にしか卸されないだろう。医療関係者でなく、しかも月に数年滞在して体液シフトを克服済みであろうカタリナが持っているはずがないのだ。


「‥わえはハンナの様子を見に行きたい。あんたはどうする?」

「マーガレットはここで生徒会長を尾行するのだ」

「‥‥分かった」


少々釈然としない顔をしつつも、クレアはうなずいた。


「マーガレットがここにいたことは他言無用なのだ」

「分かってる」


マーガレットの注意に軽く返事したクレアは、そのまま建物を出て闇夜に消えた。


◆ ◆ ◆


ハンナは医務室、もしくは206の部屋にいるはずだ。医務室は1階にあったが、クレアはなんとなく医務室であってほしいと思っていた。カタリナが本当に目的外の変な薬を盛ったとすれば、専門知識のある医者に見せるわけがないのだ。

クレアはその医務室のドアをノックして、引き戸を開けた。


「いらっしゃい」


女性の医師が机に座って、事務仕事をしていた。医者は24時間交代制で常駐しており、地球から来たばかりの4年生が多い今はおもに宇宙酔いや骨粗鬆(こつそしょう)症予防のために来る生徒が多い。月に来て1週間くらい経った今がピークなのだろうか、10近いベッドはほぼ埋まっていた。


「どうして来られましたか?どこの具合が悪いのですか?」


医師がにっこり笑って、丸椅子を平手で指した。クレアはそれには座らず、ドアを閉めて尋ねた。


「ここに、ハンナという子はいませんか?さっき倒れて気絶したばかりの」

「あら‥‥来ていませんが、倒れて気絶したとはどういうことですか?」

「あっ‥」


クレアは口を手で覆った。自分は余計なことを言ったような気がした。本来であれば医師に詳細を説明したほうがハンナのためになるはずなのだが、この話は内々的に済ますべきだという考えが頭の中をよぎったのである。今ここで下手に動くとマーガレットの言っていたように、生徒会長の不審な行動を学内で公にすることに繋がりかねない。名誉ある生徒会長はもとより、ハンナをそのようなスキャンダルに巻き込むことを億劫に思った。


「‥何でもない、です」

「あ、待って‥」


制止する医師を振り切って、クレアは医務室を出て2階へ向かった。


◆ ◆ ◆


クレアは206の部屋にノックもせずいきなりドアを大きく開いて入った。


「ハンナ!」


そう叫んで、右奥にあるハンナのベッドへ一目散に向かった。206の部屋は、ユマとカタリナはすでに去った後のようで、ハンナ以外誰もいなかった。


「ハンナ、ハンナ!大丈夫?」


そうやってハンナの体を揺するが、全く反応がない。それどころか、マーガレットいわく体液シフトで体調を崩したはずなのに、顔はなぜか青ざめている。マーガレットが勘違いした可能性もあるが、クレアは嫌な予感がした。ハンナの首に手を押し当て、脈をとった。


「‥‥ない」


クレアはますます青ざめた。ハンナの脈が、15秒間に5回しかなかった。勘違いか壁掛けの時計が壊れているかもしれないと思って自分のスマートコンで時間を測ってみたが、今度は6回だった。クレアがスマートコンを握る手が少しずつ震え始めた。やはり医務室で全部話したほうがよかったのだろうか。今ここで大切な友人を失いたくない。なぜ数日前に話したばかりのこの人が大切な友人の名にあがるのかクレア自身にとっても不思議だったが、とにかくハンナを失うと自分の人生の一部が欠けてしまうような恐怖にかられた。

そしてばっと顔を上げると、入り口にあの医師が立っていた。


「先生!なぜ‥‥」

「ハンナさんの部屋はここですね。倒れて気絶するのはかなりの重症ですよ、本来なら救急車を呼ばなければいけませんから」


そう言って医師は、つかつかとハンナのベッドへ歩み寄って、脈を見たり、体中をいろいろ探りまわった。クレアは一歩下がってその様子をつぶさに観察していたが、医師はため息をついて首を横に振った。


「命に別状はないようですね」

「で、でも、脈がなかったのは‥」

「睡眠薬の服用による急性の徐脈|(脈拍が遅くなること)でしょう。じきに正常に戻るはずです。ただ、ここに放置できる状態ではありませんから、医務室へ運びますね」


そう言って、医師はポケットに挿していた太い棒を抜いて、ハンナの体をトントンと叩いた。体がふわりと浮き上がったので、医師はハンナの体にかかっていた布団を落として、そのままハンナと一緒に部屋を出ていった。


「‥待って、睡眠薬ってどういうこと?」


廊下を歩く医師に、後をついてきたクレアが質問した。医師は逆に質問した。


「睡眠薬であらわれる症状とかなり似ています。ハンナさんは倒れる前、何か口に入れませんでしたか?」

「‥そういえば、渡された薬を飲んでいたらしい」

「その薬を渡したのは?」


そう質問されて、クレアは口をつくんだ。特に毒であるわけでもないし、薬を間違えた可能性もあってこれだけでは犯罪になりえないはずなのだが、クレアにとっては誰かの悪事を暴くのと同じような心情にかられた。ただ、一度はハンナの死を覚悟した身でもある。小さい声で返事した。


「生徒会長」

「わかりました。生徒会長には私から話を聞きます」


医師の返事と同時に、クレアは立ち止まった。そして、廊下を歩く周りの生徒達に奇異の目で見られながら去っていく医師とハンナを、呆然とした顔で見送った。


◆ ◆ ◆


キッチンで、私とカタリナはオーブンに入れたクッキーが焼き上がるのを待っていた。大きなオーブンだ。


「ハンナのクッキーは入ってるよね?」

「ええ、途中までだったからわたしが続きをやって、型抜きもしたわ。ハンナの思うようにはいかなかったかもしれないけど」


私は動揺していた。本当なら今すぐにでもハンナの見舞いに行きたい気分だったが、カタリナがなぜか「2人も抜けると厳しいわ」と言って許可しなかった。技力に長けるカタリナなら私が抜けても余裕だろうというもどかしい気持ちを押さえながら、オーブンの窓越しに中を眺めていた。

カタリナもカタリナで、どこか動揺して落ち着かない様子だった。憧れの姉にしては珍しく、視線が泳いで、腕が震えているように見えた。やはりハンナが突然倒れたことをまだ気にしているのだろう、と私は思った。

と、その時、カタリナのスマートコンに着信音が入った。


「‥‥あ、電話が入ったからちょっと離れるわね」


カタリナはそう言って、キッチンを出てテーブルが並んだ食事スペースへ行った。電話の相手はセレナだった。

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