第33話 お菓子を作った(1)
「はぁあああああ〜〜〜〜‥‥!!」
512の部屋では、一冊のノートを広げ、きれいに輝く金髪を乱しながらベッドを転がっているカタリナがいた。
「うるさいよ、何かあったん」
同じくベッドに寝転がってスマートコンをいじっていたセレナが、上半身を起こして尋ねた。カタリナは満面の笑顔を浮かべて、ノートを握ってセレナのベッドに移動した。
「見て見て、これ、ユマの絵だよ。上手いと思わない?」
それは、カタリナが先程レイナから没収したノートだった。机の上には未記入のインシデント票があったが、机の上には筆記用具は置かれていないし、票も後でゴミ箱に入れられる運命だろう。そもそもインシデントは当事者の事情徴収がなければ起票できないのだが、カタリナにそのような気はない。
「‥上手いと思う」
「でしょでしょ、これ、後輩が描いたの」
「けど‥‥」
ノートを手にとったセレナは、1ページ1ページ丁寧に見て、言った。
「これ、ユマとセレナが絡んでいるように見えるけど、カタリナは見てて大丈夫なの?」
「大丈夫なわけがない」
カタリナは笑顔でにこにこしながらそう言い放った。それから、頬を赤らめた。
「‥‥でも、後でわたしにも同じことをやってもらうわ」
「えっ?」
「ハンナばかりずるいでしょ。だからわたしも、いろいろ理由をつけてやってもらうつもり」
「へえ‥‥」
セレナはそれを聞いて、ノートの今開いているページを見た。その絵では、ハンナとユマがキスを寸止めしているところだった。それを見てセレナは血の気が引いた。
「‥‥キスするのか?」
「さあね」
「‥‥それ以外にも、確か‥‥」
ユマがハンナの下乳を触ったり。おっぱいを服の上から舐めたり。後ろから抱いたり。股間近くを触ったり。ベッドに押し倒したり。単なるしゃれあいにしては度が過ぎている。度が過ぎているから2人は嫌がったのだろうが、これと同じことをカタリナもやってもらうと聞くとなんとなく釈然としない。
「これ、付き合う前にしては過激すぎんじゃないの。ユマが嫌がったらどうするん」
耐えられなくなってノートを閉じてカタリナに投げるように返した。それを片手でばしっと受け取ったカタリナは、ふふっと笑いながら言った。
「大丈夫よ。わたしに考えがあるから」
「おー怖い怖い、頑張りなよ」
そう言うとセレナは、横に置いていたスマートコンをもう一度手にとって、またいじり始めた。
◆ ◆ ◆
翌日になった。この日から半月にわたって、外は陽も暮れて夜の暗さになる。だが建物の中では、時刻に応じて窓が発光してまるで昼のような明るさになる。窓の外から見える景色も、まるで昼のように色めいている。しかし影が濃かったり、色合いが微妙に暗かったりするので、窓の外の風景を強制的に加工して表示していることは間違いなかった。
カタリナの言う大きなキッチンとは、旧レストランのことだった。今のレストランは、以前は離れの建物で営業していたのだが、現在は寮の1階に併設された施設へ移転されている。その離れの建物にあったレストランの施設は、今は営業こそされていないものの、申請することで貸し切り当然で使用することができる。
「今月下旬の歓迎会でもここを使うわよ」
時刻は朝だが、すっかり夜になった屋外で、離れの建物を目の前にしてカタリナがそう紹介した。そういえば私たちは今月下旬の、月キャンパスに来たばかりの新5年生の歓迎会に招待されていた。まだ月に来て1週間あまりだが、いろいろなことがあったのですっかり忘れていた。
「おじゃまします‥」
カタリナが自動ドアの隣りにある普通のドアの鍵を開けて入る時、私は思わず口にした。レストランの中は薄暗かったが、カタリナが電気をつけると窓や自動ドアのガラスが光り、電灯もついた。
たくさんのテーブルが並んで、多くの客を収容できるくらいの広さだった。
「すごい広さだね!」
「ええ、もともとは男子も一緒に食べていたからね。今は男女別々になったけど、新レストランの1.5倍くらいの広さはあるはずよ」
カタリナの説明を受けつつ、私とハンナはその中を見回した。
「すごいね、ねえ、ハンナ」
私がふとハンナを振り向くと、「そうでございます」と返事するハンナの顔はどこか紅潮しているように見えた。真っ白な髪の毛が、それをひとぎわ際立たせている。
「‥ハンナ、顔が赤いけど大丈夫?」
「大丈夫でございます‥」
どことなくか弱い声に思えたが、ハンナは疲れている時はこのような声を出す。今日は不調なのだろうかと思って声をかけようとしたところで、カタリナがキッチンに向かって歩き出したので私たちもそれについていった。
キッチンの明かりがついた。アルミ色のテーブルに荷物を置いて、私とハンナは思わず声を出した。
「わああ!」
「本格的でございます‥」
アルミ色に輝く立派なテーブル、換気扇、冷蔵庫、流し台、食器棚など、いろいろな機材が並べられていた。
「これ、プロ向けの本格的なキッチンだね」
「ええ、実際にプロがここで料理を作ってたからね」
カタリナはそう答えると、自分の荷物を広げ始めた。
「作るものは3人ともクッキーでいいのよね」
カタリナは袋から食材を取り出しながら尋ねた。私もハンナもうなずくと、カタリナは向こうのテーブルを指差して言った。
「このキッチン、テーブルが3つあるから、好きなテーブルでやって。1人1つで」
「分かった、お姉さん」
テーブル1つに流し台、換気扇、コンロなどがセットになっている。カタリナが荷物を広げたテーブルは真ん中のテーブルだったので、私は端にある空のテーブルへ自分の荷物を移動しようとした。
「お待ちください‥」
ハンナが私の袖を引っ張った。
「どうしたの、ハンナ?」
「あの‥わたくしは、ユマさまのおそばで作りたいです‥‥」
ハンナがそうやって上目遣いで言ってきたので、私は思わずつばを飲み込んでしまった。一方でカタリナの長い溜息の音が聞こえてきた。
「ユマ、わたしと一緒のテーブルで作る?わたしがおいしいクッキーの作り方を教えてあげるわ」
甘言である。ハンナは頬を膨らまして、私の腕を掴んだ。
「いいえ、あの、わたくし、ユマさまに料理を教えていただきたいのです‥‥」
なんてことだ。テーブル選びからすでに駆け引きが始まっているのだ。しかし私はあくまでお菓子を作りに来たので、料理よりも2人の駆け引きがメインになると本末転倒である。
「‥‥ねえ、3人とも同じテーブルでやるのって、だめかな?テーブル1つだけでも十分大きいし。共用スペースのよりも大きいよね」
私がそう提案すると、ハンナとカタリナはお互いの顔を見合わせた。
◆ ◆ ◆
クレアは朝風呂に行っていた。
シャワーで全身の泡を洗い落とし、椅子の上に置いたタオルを魔法で浮遊させて拾い上げた。クレアは技力専攻だが、だからといって魔法が使えないわけではない。誰でも魔法は使える。得意な人が魔力専攻の授業を受けるだけだ。
湯船に入ったクレアは、鮮やかな緑色の髪の毛を両手でいじった。風呂に入るからとサイドテールを解いて来たのだが、一日中サイドテールで過ごしているから、いつもより少し髪の量が増えたような気持ちになるのである。
朝風呂に入る人は少なく、今の浴室にはクレア以外に人影はない。
「ふう‥」
髪をいじるのも終わらせ、その両手を湯の中につけて、クレアは深呼吸した。湯気が立ち込めていて、霧の中にいるようである。
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