第25話 炎~あなたにここにいてほしい~

目覚めると全身が針で刺されたような強烈に寒い朝だった。私は芸大の課題である他人の瞳を描く作業に没頭する為、今日もスケッチブックとメモ帳を片手に通学に使う環状線に乗り込んだ。本日は休講の為、目当ての駅で降りるわけでなく、環状線をぐるぐるぐるぐると半永久的に回りながら、周囲の人たちの瞳を模写していた。ほとんどの人たちはスマホを片手に、周りの人など全く興味なく、ニュースやゲーム、音楽に没頭していて、私としても作業が捗りやすかった。何の罪もない車窓の風景を眺めながら、人の顔を覗き見て、瞳を模写してゆく。たまに数人が私の行動に気づいて、嫌な視線を浴びせてくる。全く、芸大の教授は空気の読めない課題を出してくる。六浪の末にようやく合格した芸大なので、課題が嫌で辞めるなどと学費を出して貰っている親にはとても言えない。しかしながら私は芸大の課題以外には全く作品を描いていない。教授たちに君は芸大に入学して何がしたいのかとネチネチ嫌味を言われたほどである。自分には芸術家としての才や種はないと今更ながらに納得した。卒業してしまえば、社会の歯車の一つとなるのであろう。それならそれで良い。物心ついたときから視線が苦手で、人との会話も、視線を合わせるなど高度な技術を持ち合わせていなかった。だから今回の課題は自分には不向きで、投げ出したい衝動に侵されたが、六浪もしたうえ留年は出来ないと私は渋々無意味な課題を受け入れ、こうして何処にも運ばれることのない列車にぼんやり座っていた。朝からの寒さと足の指先のしもやけで私は眠気と戦いながらも、懸命に筆をすすめた。こんな課題は適当にこなせばいいのだが、正直でなければ芸術家になれないと同朋から聞いて已む無く作業に勤しんでいた。多分私は芸術家には向いていないのだと思う。芸術家は命を削る仕事だと私は思う。しかしながら私自身にそこまでの覚悟はなく、享楽的な暮らしへの憧れも捨てがたい。そのような惰性で生きている毎日なので、高尚な趣味などなく、酒やタバコで人並みに人生を楽しんでいる。こうして人の瞳をスケッチしていると、瞳にも色んな形や色があって、非常に興味深い。中には黒目がひたすら大きく充血した瞳でこちらを覗き見るような不気味な瞳もある。向かいの座席に座る中学生くらいの女の子は、携帯をイジるわけでもなく、音楽を聴いているわけでもなく、文庫本を読んでいるわけでもなく、ただ両の手を膝の上について、凛とした姿勢で背筋を伸ばし座っていた。目、鼻、口元全て形が整っているポニーテールの美少女は、まるで意識があるのかどうか分からないような微睡んだ表情で虚空を見つめていた。ふいに視線が合い、私はぎょっとして、慌てて視線を逸らした。少女は私をひたすら凝視していた。果たして以前にお会いしたことでもあるのかというていで私を見つめていた。ふと顔に何かついているのか気になったが、あまりにこちらを見つめ続ける為に、私も気になり視線を向ける。しかしながら二十代後半の私と、女子中学生とは全く接点がないし、心当たりもない。少女の潤んだ瞳が煌めいていて、私は思わずスケッチブックを取り出し、その美しい瞳を描き写したくなった。少女からは微かな息遣いが伝わってくるが、私の視線に身じろぎする様子はまるで無かった。少女はすっくと座席から立ち上がると、わずかに小首をかしげて、こちらに向かい歩いてきた。列車の激しい揺れにも動じず、器械体操経験者のような平衡感覚で真っ直ぐに歩き眼前で立ちふさがった。至近距離で少女を見つめると、色白で端正な顔立ちをしていた。一重の切れ長の瞳でまつ毛が濃く長い。モデルか女優を彷彿させる瞳に私は魂ごと吸い込まれてしまいそうになっていた。『何か?』と私が声をかけようとすると、少女は真っ直ぐに私の瞳を見つめて、握手を求めるように右手を差し出してきた。少女の差し出された右手に、私の右手もまるで棒磁石のN極とS極のように吸い寄せられ、意識をせぬうちに、いつの間にか少女と握手を交わしていた。その瞬間、脳内にかっと熱い火照りを感じ、右腕に煮えたぎるような強烈な痛みに襲われ、咄嗟に手を離すと、自分の右手の手のひらから、炎と黒煙が湧き出て、眼球にも熱い痛みを感じていた。右手の先からほとばしる炎は踊るように暴れ狂い、右腕全体を包み込み、轟轟ごうごうと燃え上がる。まるでピンク・フロイドのアルバムジャケットのような絵面えづらに私は驚きのあまり声も出せなく、呆然と燃え上がる炎を凝視していた。周りの乗客たちは、この常軌を逸した状況に、凍りつき、黄色い悲鳴と野太い驚愕の声があがり、私から距離を置こうと、皆が皆、隣の車両へと逃げ回った。私がたまらず手を伸ばし、逃げようとする乗客たちに触れてみた。触れた者たちは瞬時に灰になった。愕然とする気持ちが胸底に広がっていた。灰になった人間は、脆く、骨までも残ること無く消え去った。私の燃える手で触れられた者は一瞬スパークした火花のように、ぼうと燃え上がると次の瞬間には灰になって、火山灰のような細かい塵を残して消えていた。パニックになった乗客たちは私から逃げるように他の車両へと駆け出してゆく。老婆は私の姿に腰を抜かして、座ったまま仰け反ってた。老婆も私が触れた瞬間に炎に包まれて灰燼と化した。列車が次の駅に停まり、ドアが開いた瞬間に、乗客たちは土砂崩れのようにプラットフォームに転げ出た。数人の乗客たちが将棋倒しのようになり、そこら中から悲鳴が聞こえた。いっせいに吐き出され乗客たちは、プラットフォームから乗り込もうとしていた人々を押しのけて一目散に改札口へと向かって行った。ふと気がつくと、この要因を創り出した少女が隣りにいた。少女は『行こう』といい私の手を握りしめ、そのまま引っ張るように改札口のある階下へと足を進めた。改札口を出て、そのまま外に出てみると、今までに見たことないくらいの全体に赤みがかった景色に私は驚嘆の声をあげた。めりめりとしたような音が頭上から響いてきて、見上げてみると、太陽が信じられないほどに近い距離まで迫っていて、地球そのものを巻き込む勢いで膨張していた。それはいつか何かの授業で聞いた50億年後の世界のようでもあった。太陽は容赦なく乱暴な程に、人や建物を焼き尽くしていった。それは幼少の頃に見た戦争映画の原爆が落ちた瞬間と酷似していた。巻き上げられた硝煙と砂塵の細かい粒子が瞳に飛び込んできて、眼球が煮えたぎるような熱い感覚に襲われて、思わず瞳を閉じる。隣からはなにやら手のぬくもりを感じて、瞳を開けると、少女はまるで何事もなかったかのように、汚れや火傷もなく綺麗な姿のままに立ち尽くしていた。色を喪失した人間や建物は灰となり、風に吹かれて散っていった。私と少女は、広大な砂漠に置き去りにされたかのように、ぽつねんと立ち尽くしていた。やがて近距離まで迫っていた太陽の黒点がぽたりとわら半紙に落とされた墨汁のように広がり、黒煙をあげて、またたく間に大きなブラックホールのような黒い大きな穴となった。砂と化した人々や建物を踏みしめて、私は少女と黒い大きな穴に向かって歩み始めた。『行こう』とまた少女は私の右手を強くつかみ歩みを進めた。選ばれた二人で新たな文明、新たな歴史を紡ぎ出す使命の為に、次の時代へのシンボルとなる為に、二人は指先をからめるようにしっかりと手をつなぎ、陽射しの一切届かない、濃密な暗闇の中へと入っていった。

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