文月・忌:静かに、そして満ちてゆく03
天気予報は久々の晴天だ、と言っていた。だから油断してうっかり折り畳み傘を入れ忘れたら、みるみるうちに曇天になり一気に大粒の雨が激しく降り出した。歩道も、車道も、びしゃびしゃと水飛沫が上がり、当然ながら傘忘れの宗一は濡れ鼠と相成ったのである。
「ついてへんなァ……」
コンビニに飛び込みタオルを買い、ぐしゃぐしゃと髪を拭きながら、近くにあったスーパーで雨宿りすることにした。ここは魚介類と野菜果物が強い庶民派系のスーパーだ。鎌倉から江の島、葉山の方まで、一帯は相模湾もあり漁港も点在する。地元密着型のスーパーは、新鮮な魚を並べることが出来るのが強みだ。
――お、釜揚げシラスが出とるな。
この界隈はシラスが獲れる。ふわっと炊き上げたものが早々に店に並ぶので、それをそのまま丼にしてもいい。真ん中に卵黄を落として小口葱を散らせば絶品だ。出汁醤油もあるし、今晩はこれにするべきか。パックを手にしたところで、野菜を運んでいた店長に声を掛けられた。時折買いにくるせいか、顔を覚えられてしまったらしい。
――まあ、どうせ一年経って戻ったら記憶皆なくなるから、ええねんけどなあ……。
兄ちゃん、災難だったなあ! これオマケしてやるよ! と渡されたのは、大ぶりの大根とオクラだ。随分と大盤振る舞いなものだから「払わなくてええのん?」と聞けば今日は客足も途絶えて売り上げもたかだか知れているし、いつも色々買ってくれているからな、と返された。有難く頂く代わりにシラスと小口葱を買うことにする。買い物袋にざっくり入れて、店の外を見れば雨も小降りになってきた頃合いだ。
「……帰るか」
時刻は十八時を回っていた。陽が長いのでどうも感覚がブレてしまう。それだけ長いこと雨宿りをしていたのだな、と考えれば急いで帰らねばと、歩く足も早くなった。駅前は混雑しているから、小町通りを突っ切って踏切を渡ることにする。この雨で観光客は殆ど引いていたし、踏切さえ渡れば早々と家に辿り着くことが出来る。
丁度踏切が上がったところでタイミング良く渡ることが出来ると、目の前には骨董品が目一杯硝子の向こう側に並んでいる店が現れた。こんな店構えではあるが、中は本棚にみっしりと古書が詰まっている。古本屋だと知った時は、随分面白いことをしているものだと思ったものである。今は、この店には龍一が出入りしていた。店番をしていたとしても、既に帰宅しているだろうから、店内は覗かずにそのまますい、と通り過ぎる。
と、その後ろからぱたぱたと、足音が聞こえてきた。
「りゅ、りゅういちさん!」
「あ?」
予想外に呼ばれた名前に、思わずぐるりと振り向くと、年配の女性が必死になって、こちらへ全力で走ってきているところだった。まずい。主に相手の心臓への負荷的な意味で。
「ちょ、待ち! おばあちゃん待ちぃ!」
慌てて止めながら駆け寄る。これは、もしかしなくても。
「りゅ、りゅうい、龍一さ、ん、よかっ」
「あああ、おばあちゃんごめんな。俺龍一と違うんよ」
これは、昔からの良くある話だ。
どうも、直木三十五と芥川龍之介は『似ている』らしい。しかも、ちょっとどころではなく。
自分達はお互いに「こんな奴に似てるなんて心外だよ」「こっちこそお前みたいな河童に似てるなんて御免被りたい」と言い合っていたものだが、周囲は初見だとほぼ間違えるといった有様だった。自分も何度か芥川に間違えられたのを思い出す。しかし、まさかこの状況でまた間違えられるとは。
――あ、そか。
先刻豪雨に見舞われた際に濡れてしまい、前髪が落ちたのだ。くしゃりと髪をかき上げながら、宗一は女性に話しかけた。
「俺は龍一ちゃいますよ。よう似てる言われるけど」
「……お知り合い、で、す?」
「ええ、宗一言います。それより、ちょっと呼吸落ち着いてからでええから、少し休みましょ?」
息も絶え絶えのように喋るので、呼吸が止まってしまいそうでおっかない。宗一は傍にある店のひさしの下まで女性を連れて行った。定休なのをいいことに、そこで休憩させてもらうことにする。
「龍一がどないしたんですか」
「ああ、今日店番に来てくれたのだけど……これ」
そこで彼女が良く名前を聞いていた『富美子さん』だと把握する。古本屋にはあちこち行ってはいたけれども、龍一が出入りしているここには何となく行きにくかったのがあった。知り合いがいるところで、自分の本――あれば、だが。――や、仲間達の本を物色するのは少々やりづらい。だから、宗一と龍一が並んでいるところを彼女は見たことがなかったのだ。それは間違われても仕方がないのかも、しれない。特に髪を下ろしているのなら猶更。
その彼女が手にしていたのは。
「財布、にスマホ?」
「忘れて行ってしまったみたいなの。気が付いて追いかけようと思ったらもういなかったものだから、どうしようかと思ったら丁度貴方が通りかかって。あんまりにもそっくりだったから、龍一さんだと思ってしまったの」
成程、そういうことかと納得する。しかしそれにしても、財布もスマホも忘れるとはどれだけ間抜けなのか。はあ、と呆れて思わず深いため息をついてしまう。いつもふわふわぽわぽわしてて、危なっかしいったらありゃしない。
「まあ、でも俺で丁度良かったわ。それなら、これから家戻りますし良かったら渡しときますけど」
買い物袋をがさり、と見せるとぱあっと表情が明るくなった。年相応に皺もあり、髪も白いが、いきいきとしていて上品ながらもはつらつとした魅力がある。それを受け取ると、ぺこり、と軽く頭を下げた。
「ほんまわざわざすみません。帰ったら重々言うときますし」
「いいのよ、それじゃあお願い致します」
ひらひら、と手を振られ見送られる。その頃にはすっかり雨は上がっていた。空は大分薄闇に覆われ、夜の色に染まりつつある。兎に角早く帰ろう、と歩く速度を上げればそう時間もかからずに家の門の前に到着していた。
門をがちゃり、と開けて中庭の石畳を歩いて行く。
そして戸を開けようとデニムパンツのポケットに手を突っ込んだ、その時だった。
目の前でがらり、と勢いよく戸が開く。
「ッ、あ⁉ 花?」
「え、そ、宗一さん? あ、あのっ」
必死の形相で飛び出しそうになった花がバランスを崩したのを何とか抱き留めると、腕にしがみつきながら半泣きの表情で見上げられる。
「どないしたんや」
「――帰ってきて、ないんです。今日、普段と変わらなくて、昼間もお店寄っても大丈夫だったから、安心してたのに」
「え」
嫌な、予感がする。
花が震えている理由にも、そして花がそれを知っているのも。
「龍一さんが、まだ、帰ってきてなくって」
心臓が、ばく、と大きな音を立てる。待て。今日は、何日だ。
「……ッ、二十三日だったから、気を付けてたのに、明日が、一番危ないって」
「花、お前まさか」
こんな突拍子もない真相に、辿り着いたというのか。ふるり、と首を振りながら、泣き出す寸前の声が、とどめを差した。
「明日は、芥川龍之介さんの命日、なんですよね? 宗一さん」
この子は。知っていたのか。
知っていて、それでも黙って自分達を。
「――すまん」
最初にこぼれたのは、謝罪だった。どうやって自分達に辿り着いたのか。それを知ったのかは、わからない。しかしそれは責められることではなく、寧ろこちらが土下座してでも謝らねばならぬことだ。仮初の記憶を刷り込んで、ここに潜り込んでいたのだから。
「ッ、やです。謝らないでください。それより、誰も居なくなってなんかほしくないんですっ!」
ぎゅう、と掴む力が、強くなる。わかってはいたが、こんなに小さな身体、だったのか。
「あんの、ド阿呆がッ」
先刻、手渡されたものを思い出し、ぎり、と奥歯を噛み締める。
財布に、スマホ。今の生活には欠かせないものだ。それを手離し、尚且つ戻っていない、ということは。一刻の猶予も許されないということなのではないか。
今日は、二十三日。日付が変われば――七月二十四日だ。
「探しにいかんとあかんな」
ぼそり、と呟いてから、花の肩を支えて上がり框に座らせる。ふ、と息を吐いて外に戻ろうとしたのを、ぐい、と服の裾を掴まれた。
「私も、行きます」
「花」
「一緒に探しに行きたいんです」
どこまで探しに行くかも、どれだけ時間がかかるかもわからない。一晩中、かかるかもしれない。引っ張りまわすには体力だって消耗する。自分は兎も角として、彼女にそこまで背負わせていいものか。
昔ならもしかしたら、即座に判断できたのかもしれない。しかし、やはりもう昔の自分とは違うのだ。新たな時間を、経験を、積み重ねてしまえば、変質する。わかりきっていたことだ。
かつての『直木三十五』は、もう再現は出来ない。
――くそ、どうする……⁉
ぎゅう、と眉間に皺が寄った。
と、耳に微かに門が開く音が、聞こえてくる。
「どうも、お邪魔しますよ」
聞き覚えのある声が、暗闇の中に、響いた。
「斎藤」
「斎藤さんッ」
花が弾かれたように呼んだ声に、思わず「あ?」と低い声を上げてしまう――斎藤のいる方へ。
「おお、怖い。誤解なきよう。彼女は己の力で私達に辿り着いたのですよ」
手をひらひら、と軽く上げ降参の姿勢を取られる。そして、かちゃんと門を閉めてからこちらへと歩いてくると、少し姿勢を屈めるようにして、話し始める。
それは、花に対しての言葉だった。
「花さんは、ここでお待ちいただけませんか」
「え」
どうして、という声にならない想いが、痛いほどに伝わってきた。
斎藤は静かに言葉を続ける。
「これから、出来る限り早く、出来る限り多くの場所を探す必要があります。それは体力的に貴女にかなりの負担を強いることになってしまいますから」
「でも」
「ボロボロになってしまった貴女を見て、龍一さんは自責の念に駆られることでしょう」
そこでびくり、と大きく身体が震えた。
頭をそっと、柔らかに撫でながら、斎藤は微笑んだ。
「……待っててあげて、頂けませんか。私も一緒にここで待ちますから」
暫しの沈黙の後、小さくこくり、と頷くのが見えた。
ああ、自分は意地でもあの馬鹿を引きずってこなければならない。ここに、何としてでも。
そう決まれば、すっと急に軸が定まる。俯いた花の目の前に、がさり、と買い物袋を差し出す。
「花、これ冷蔵庫に入れといてんか。明日の昼にでも食お」
「そういちさ」
決めたのだ。絶対に。
「三人で食おうな」
そう笑って言ってやる。瞬間、花の目が丸く、見開かれた。潤んで今にも雫がこぼれ出しそうで、思わず指で目じりをそっと拭ってしまった。そして、斎藤へと視線を移す。
「花のこと、頼むわ」
「ええ、勿論。花さんも、この家もお守りしていますから」
その言葉を合図に、から、と戸を開く。そして、暗闇に向けて、一気に駆け出したのだった。
どうしようもなく脆く、優しく、馬鹿で、弱い、愛すべき男を、連れ戻す為に。
***
気配が遠ざかっていく。
暫く動かなかった花が、急にすくっと立ち上がったのに、思わず斎藤は柄にもなくびくりと身体を竦めてしまった。靴を脱ぎ、とある部屋に入っていく。お邪魔します、と呟いてから後に続くと、その部屋は台所だった。
買い物袋から、野菜やらシラスやらを取り出し冷蔵庫や野菜室へ入れていく。大根はそのまま台に置いて、花は大きな鍋を用意し始める。
「……花さん、何を始めるおつもりで?」
「私が、出来ることです」
斎藤はその時、とても力強い誓いを、耳にした。
「あの二人が帰ってきたら、沢山食べてもらわないといけませんからね!」
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