七十五話 対決の結果

 久しぶりのバイト漬けの土日はあっという間に過ぎ去った。

 七星さんの計らいのお陰で疲れが取れていたのか、以前よりもきびきびと動けたような実感がある。

 日曜日のバイト上がり、店長が「その調子で夏休みも頼むよ」と絶妙な圧をかけてきたが、俺は苦笑いで応じた。


 そんなこんなで運命の月曜日。

 今日から二日間にわけて、期末考査の答案が返却される。


 いつもより早くに起きたのに、目はすっかり覚めていた。

 日がまだしっかりと昇っていない時分に家を出て、今の季節には貴重な涼しい外の空気を浴びる。

 昨日バイトしたこともあって俺はいつものコンビニに立ち寄ると、少し高めのコーヒーとパンを買って待ち合わせ場所の公園へ向かった。


 当然ながら七星さんの姿はない。

 いつもの待ち合わせ時間よりも三十分早く着いたし、当たり前だが。


 公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げながら朝食をとる。

 そうこうしているうちに随分と日が昇ってきて、真っ青に澄んだ空がその姿を覗かせた。

 朝の冷気がじんわりと追いやられていくのを感じていると、遠くから自転車が走り寄ってくる音が聞こえ、そちらへ視線を向ける。


「おはようございます、赤坂さんっ」

「おはよう」


 現れた七星さんと共に走り出す。


「いよいよですね」

「そうだな」

「……なんだか落ち着いていますね?」

「まぁここまで来たらもうなるようになるからな。今さらどうこうしてもどうにもならん。……緊張はしてるけどな」


 朝早くに目を覚ましたのもそう。

 今だって胸の奥がどこかざわついている。

 だが、意外にも落ち着いていた。

 ……たぶん、答案が返却される直前まではこの平穏な心持ちを保てるだろう。


 そんな奇妙な確信を抱いていると、隣を走る七星さんがくすりと笑った気配がした。


「わたしが勝っても恨みっこなしですからね?」

「こっちの台詞だ」


 などと軽口を言い合っているうちに学校へ到着した。



     ◆ ◆



 ――六百二十五点。

 期末考査の主要科目の合計は、六百二十五点だった。


 目標であった平均九十点越えには僅かに足りなかったが、中間考査の時よりも五十三点伸びている。

 伸び幅は前回と比べると小さいが、そもそも比較するのが間違っているだろう。


 ……そう。比較するべきはあくまでも七星さんの成績であって。


 全ての答案が返却された火曜日の放課後。

 俺は試験結果を訊ねてきた大河を殆ど無視する形で教室を飛び出し、七星さんと共に迎えのリムジンへ乗り込んだ。

 普段なら駐輪場に停めてある自転車で帰るのだが、今日はリムジンでの登下校になる。


 お互いの試験結果は一科目も話していない。

 今日の放課後に見せ合おうと決めていた。


 走り出したリムジンは最早見慣れた道順に従って七星さんの家へ向かう。

 お互いの試験結果の見せ合いを放課後の人気の多い教室ですることも躊躇われ、かといって下校中のどこかの道端でやるというわけにもいかず。

「わたしの家でやりましょう」という七星さんの提案に頷く形となった。


 答案用紙を見せ合えばすぐに終わる話だが、腰を落ち着かせたかった俺としても異論はない。


 答案用紙の入った学生鞄に、無意識のうちに腕を載せていた。

 隣に座る七星さんも俺と同じく緊張しているのか、車内に二人でいればいつもは話しかけてくるのに、今日は静かだ。


 このまま緊張感のある沈黙を保ったままでいることは躊躇われて、俺は堪らず口を開いた。


「七星さんも緊張してるのか?」

「当たり前です。赤坂さんの成長はずっと見ていましたから、今回は負けているかもしれないと不安で一杯です」

「あ、そっちなの。俺が勝っているかどうか心配なんじゃなくて」


 今回、俺と七星さんが勝負することになった原因を考えれば七星さんにとっては俺が勝ってくれた方がいいはずだが。


 七星さんは俺の言葉にむっとした。


「勝負である以上、わたし自身が基準になるのは当然です。絶対負けませんからっ」


 そういえば以前にも負ける気がないと言っていたが、まさかこれほどの熱量があるとは。

 より一層、鞄にかける力が増す。


 いつの間にかリムジンは七星邸の大きな門をくぐり、奥に聳え立つ洋館の前へ停まった。


 俺と七星さんの間に漂う空気を察してか、笹峰さんも普段より静かに案内してくれる。

 俺が通されたのは以前にも案内された応接室だった。


 部屋の中央に据えられている一対のソファにお互い腰を下ろし、一息つく。

 笹峰さんが淹れてくれた紅茶で舌を濡らし、俺は七星さんと視線を交わした。

 それが合図だった。


 どちらからともなく鞄に手を伸ばし、中から七枚の答案用紙を取り出し、裏を向けた状態で目の前のローテーブルに並べる。


「用意はいいですか?」


 七星さんの問いかけに、俺は意識的に力強く頷いた。



     ◆ ◆



「……勝っ、た……のか」


 点数が見えるよう表向きに並べられた答案用紙。

 自分の答案と七星さんの答案を比較を終え、俺は自信なさげにポツリと零した。


 俺の七教科合計は六百二十五点。

 大して七星さんの合計は、六百二十一点。

 ……四点差で、俺の勝ちだった。


 本当に僅かな差のため、計算間違いが怖い。

 俺は二度、三度、足し算をやり直して、それでもやはり四点差で俺は七星さんに勝っていた。


 勝利を実感すると、七星さんに勝てた喜びよりも安堵の方が強く湧き上がってきた。


「よかった……」


 この数週間の努力が報われた気がして、俺はゆっくりとソファの背に体を預けた。

 本当に僅差だったが、勝ちは勝ちだ。

 素直にホッとする。


「ありがとう。七星さんのおかげ……って、ええっ!?」


 俺がこの成績を収めることができた一番の功労者に謝辞を述べようと居住まいを正し、七星さんを見ると、彼女は目尻に薄らと涙を溜めていた。

 両手をあたふたとさせて困惑していると、七星さんは涙を拭いながら俺を見つめてきた。


「……おめでとうございます」


 ……とても祝われている気がしねえ。

 滅茶苦茶悔しそうな声で絞り出すように言われた。


「あ、ありがとう」

「これで、おじい様たちに赤坂さんのことをアピールできます。……よかったです」

「お、おう。俺も本当によかった。安心してるよ」


 今、別の要因で不安になっているが。


 七星さんは俺へ称賛の言葉を向け終えると、ギュッと膝の上で両手を握り、俯いてしまった。

 両肩を震わせ、感情を押し殺そうとしている。


 ……まさか、ここまで悔しがるとは。

 いや、まあ俺に負ける気はないって言ってはいたけども。


 今回の成績は七星さんのお陰なんだから、実質的には七星さんの勝ちだと思っている。

 だが、それは俺が思っているだけであって、当人の認識は別なんだろう。


 かける言葉も見つからなくて黙っていると、不意に七星さんが顔を上げた。


「これで、入学以来守ってきた学年一位の座を失陥したわけになります。――この責任は、とってもらいますからねっ」


 じぃっと、七星さんの青い瞳が俺を見つめてくる。


「いや、責任って言われても……、そもそも俺は悪くないような。いや、悪いのか?」


 今回のことを提案してきたのはそもそも七星さんだし、俺が七星さんに負けていたら、七星さんはパーティーの場で恥をかくことになっていた。

 ……考えれば考えるほど俺は悪くないような気がしてきた。


 すると、俺の思考が纏まったのを見計らったかのように、七星さんがクスリと笑った。


「冗談ですよ。学年一位をキープできなかったことは悔しいですけど、赤坂さんの頑張りが報われたことの方が嬉しいんです。本当におめでとうございますっ」

「……ありがとうな、本当に」


 可憐に笑って称賛してくれるが、先程の態度が全て冗談だったとは思えない。

 七星さんは本気で悔しがっているのだ。


 俺は彼女に最大限の感謝を口にした。



 ――後日。

 通知表と共に学年での順位が手渡された。

 俺の七教科合計での順位は、七星さんと入れ替わるようにして学年一位になっていた。


 少し前までは学年で中ほどの成績だった俺が一位になり、先生方は大層驚いていた。

 俺もまた、別人の成績なのではないかと疑いたくなる。


 ともあれ、一学期は終わり――夏休みが始まった。

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財閥のお嬢様と始める偽装交際~「これは契約だ」と思っていたはずが、何故か財閥の総力をかけて甘やかしてくる~ 戸津 秋太 @totsuakita

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