第17話 去って行く辛

「うぅっ……花梨ーっ!」

 一度涙が溢れると、これまで張りつめていた緊張の糸も、完全に切れてしまったみたい。ボロボロと泣きながら、花梨に抱きついていく。

「ちょっと杏。これ、どういうことなの? 

 あいつ、邪鬼だよね。しかもすっごく強いやつ」

 辛の頭に生えた角を見て、何者なのか察したみたいだ。

「うん。あの邪鬼、辛が亜希にとりついたの。そのせいで亜希がおかしくなって、ひどいこと言って、渚と麻耶が大変なことになって、次は私にとりつくって言って……」

「いや、全然わかんないから!」

 詳しく説明しようとしたけど、とても落ち着いて話すなんてできそうもない。それでも花梨は、最低限のことは理解してくれたようで、私達の前に立ち、辛を睨み付ける。

「とりあえず、あんたは敵で、亜希って子にとりついてるってことでいいんだよね」

「そういうことになるかな、退魔師のお嬢さん。それにしても、こんなに早くやって来るとは驚いたな。配下の邪鬼を君に差し向けたはずなんだけど、どうしたんだい?」

「そんなの、みーんなやっつけてやったよ! 邪鬼退治の御札、たくさん持ってきといてよかった」

 一度教室に行って持ってきたのか、花梨の肩にはナップサックが掛けられている。そしてその中には、毎晩作ってるっていうあの御札がたくさん入っていた。

 どうやら辛も、退魔師である花梨のことは警戒していたみたいで、私が辛と向かい合ってる間、花梨も花梨で大変な目にあってたらしい。

 だけど花梨は、それを倒して今ここにいる。

「へぇ。どうやら君は、退魔師の中でもかなり強い力を持ってるみたいだね。その若さで大したものだ」

「当然でしょ。私は、天才退魔師なんだから。わかったら、あなたも大人しくやられなさい!」

 全部言い終わらないうちに、花梨の手から御札が放たれる。

 ペラペラした紙でできてるとは思えない速度で飛んでいったそれは、辛の右手によって受け止められる。だけどそのとたん、御札はバチッと音を立てて光を放った。

「くっ!」

 光が消えた後、辛の手にはわずかに傷が残っている。花梨の放った御札は、確実にダメージを与えていた。

「どう。覚悟なさい!」

 相変わらず強気で、自信たっぷりの花梨が、今はひたすらに心強い。

 花梨なら、この強い邪鬼とだって戦える。

 だけど辛も、手傷を負ってなお、余裕の表情は消えていなかった。

「やっぱり強いね。だけど、この程度の傷をつけたくらいで勝てると思ってるなら、まだまだ甘いよ」

「何さ、負け惜しみ? それくらいじゃ倒せないなら、もっともっと攻撃すればいいだけじゃない」

 ナップサックの中から、再び御札を取り出し構える花梨。それでも辛は、少しも慌てない。

「そうかな? 僕を倒すのは、君でもそう簡単にはいかないと思うよ。それにね──」

 辛はそこまで言うと、その体を、徐々に人間に近いものから、黒いモヤへと変えていく。

 そして完全にモヤと化した辛は、すぐ側に立っていた亜希の体の中に、吸い込まれるように入っていった。

「ちょっと、何してるのよ!」

 花梨が叫ぶけど、亜希からは一切の反応がない。変わりに、亜希の体の中から辛の声がしてくる。

「見ての通り、とりついた体に戻っただけさ。ところで、この状態で僕を倒せばどうなるか、もちろん君ならわかるよね。下手をすると、この子の心も、僕と一緒に壊れてしまうよ」

「くっ──!」

 花梨が息を飲むのがわかる。

 もちろん私は、そんなの聞いたこともないけど、その言葉と花梨の反応から、どう考えてもいい予感はしなかった。

「こ、心が壊れるって、どういうこと?」

「言葉通りの意味だよ。感情を失くしてしまうか、最悪、何も考えられなくなるかもしれない」

「そんな……」

「そ、それは、最悪の場合そうなることもあるってだけだから!」

 花梨が慌てて付け加えるけど、なら大丈夫なんて思えない。最悪の場合、そんなことになってしまうんだ。

「なんとかする方法はないの?」

 祈るような気持ちで聞いてみる。

「邪鬼がとりつくのは、元々その人が、ある程度負気に満たされているのが条件なの。だから、それをなんとかすれば追い出せる。負気を生み出すには、その元になる負の感情が必要なんだけど、心当たりない?」

「それは……」

 心当たり。そう言われて、言葉に詰まる。それは、何も思い浮かばなかったからじゃない。思い浮かんだそれを、違うって否定したかったからだ。

 だけど、辛がそれをさせてくれなかった。

「杏。君なら、わからないわけないよね。だって、そもそもこの子の中にある負の感情を作ったのは、他ならぬ君なんだから」

「──っ!」

 辛が姿を現す直前、亜希は私に怒りをぶつけていた。私が結城君を好きなこと、それを隠していたことを、激しく責め立てていた。

 それが、亜希の抱えていた負の感情の正体だって言うの?

「あ……あれは、あなたが亜希を操って言わせていたことでしょ」

 辛から話を聞いて、あれは亜希の本心じゃないんだと思った。思うようにしていた。

 だけど辛は、静かに首を横にふる。

「確かに、僕は人の持っている負の感情を操ることができる。だけどそれは、元々その人が持っているものを、暴走、増幅させたにすぎない。なんなら、彼女の本心を聞かせてあげようか。君のことを、今までどう思っていたかをね」

 辛はそこで言葉を切ると、それを引き継ぐように、今度は亜希の口がゆっくりと動いた。

「杏……」

「亜希!」

 なんだか、亜希の声を聞くのもずいぶん久しぶりな気がする。だけどその言葉はたどたどしくて、顔は病気にかかったみたいに青白くて生気がない。

 そんな状態で、亜希はボソボソと呟く。

「杏……ずっと、あなたのことが嫌いだった」

「えっ……」

「あなたは昔から……自分のやりたいこともなかなか言わないで……いつも私の顔色を伺ってた。その度に……私がどれだけイライラしてたかわかる?」

「やめて!」

 弱々しく、今にも消えそうな声で語られるそれは、だけどナイフのように鋭く、私の心に突き刺さる。

「亜希、こんなの嘘だよね。操られているから、こんなこと言ってるだけだよね」

 信じられなかった。確かに私は、亜希の顔色を伺うこともあった。空気を読んで、波風が立たないようにと思って動いていた。

 だけど、それが全部見透かされて、こんな風に思われていたなんて、信じたくなかった。

 再び、亜希の中から辛の声が響く。

「残念だけど、これは紛れもない、この子の本心だよ。この感情が溜まりに溜まって心が埋め尽くされていたから、僕はこの子にとりつくことができたんだ」

「嘘!」

 私が今までしてきたことが、亜希をそんなにも怒らせていたの? 私がそんなのじゃなかったら、亜希は辛にとりつかれずにすんだかもしれないの?

 さらに、辛の声は続ける。

「不思議なものだね。さっきは恐怖を抱きながらも僕に立ち向かってきたかと思えば、今は不安でいっぱいで、だんだんと負の感情に染まってきている。このままだと、僕がとりつけるようになるのも近そうだ」

「──っ! 私のこと、まだ諦めてないの?」

「当然だよ。一度見つけたオモチャは、大事にしないとね」

 ゾワリと、鳥肌が立つ。

 辛はこの状況でも、さっきまでと何も変わらない。まるで、私を苦しめるゲームをしているようだった。

 このタイミングで亜希に本音を言わせたのも、きっとそのため。そしてその効果は、悔しいくらいに抜群だった。

「最低!」

 花梨が、とうとう耐えきれなくなったように怒鳴り、御札を放とうとする。

 だけど今辛を攻撃したら、亜希の心が壊れてしまうかもしれない。

「花梨、やめて!」

 涙混じりに叫ぶと、花梨も悔しそうに手を止める。だけど、構えを解こうとはしなかった。

「これ以上杏を傷つけるなら、今度こそ容赦しないから」

「いいよ。けど、妹が友達を傷つけるのを目の当たりにすれば、杏の心は、よりいっそう負の感情に支配されただろうね」

 怒りをぶつける花梨だけど、辛の余裕は少しも揺らがない。

 攻撃してもしなくても、全部辛の思い通りのような気がした。

「さてと。君達がなにもできないようなら、僕はこれで失礼させてもらうよ」

「なっ!? 逃がすとでも思ってるの!」

 なんと、この状況で立ち去ろうとする辛。もちろん花梨は、すぐさま止めようとするけど、手が出せない以上、その術はない。

 悠々と、教室の出口に向かって歩いていく。

「心配しなくても、この子の家に帰るだけだよ。杏の心が負の感情に染まりきるまで、もう少し時間がかかりそうだから、それまでゆっくり待つだけさ」

 またしても鳥肌の立つようなことを言うと、扉に手をかけ、悠々と教室から出ていく。

 花梨はなんとしてもひき止めたいようだったけど、結局何も言えず、私も、そのまま見送ることしかできなかった。

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