第173話●百合の芸名

 サイン会もすべて終わり、シークレットライブも無事成功した。オフのはずの日曜日に朝から基礎レッスンが入ってしまったのはかわいそうだったけど、ディナーショーと紅白のことを話題にされると聞くしかないもんね……。そして、その日曜日には早々と百合がグルチャに招待されて、12人から13人になった。Tlackのチャンネルにも招待されている。なんかどんどんメンバーが増えていくけど、そこに妹が入るっていうのはなんか面白いなあ。ちなみに冷凍していた国産豚バラブロックは無事日曜日の食卓に角煮として並んだ。運良く三浦大根もスーパーに出ていたので一緒に煮込んだけど、未亜はものすごい美味しそうに食べてくれた。良かった。


 週明け月曜日、授業が終わると未亜は、まず事務所で1時間トレーニングをしてから収録をするそうで、事務所経由で5thアルバムの収録へ向かった。2週間弱、収録が空いてしまったので、今日は夜まで缶詰になって頑張るそうだ。

 つまり、指輪を見に行くのにちょうど良いタイミングということ。太田さんも同じことを考えたらしく、授業が終わり次第、事務所へ来て欲しい、ということだった。会社に着くとそのまま太田さんのデスクへ向かう。


「おはようございます。」

「あっ、先生おはよう。行く前に何か『近況報告』あるかしら?」


 ちょうどいいタイミングだったので25日の食事に関して相談をする。実は今回のディナーショー、未亜は肝心の料理を食べられない。ショーの前にディナータイムがあって、どのホテルも希望すれば同じタイミングでディナーを楽屋にいながら楽しめるらしいのだけど、未亜の場合満腹になってしまうと歌声に影響が出るので食べることが出来ない。ショーが終わったあとはもう撤収に入る上、レストランの営業時間が終わっているため、別途レストランで用意してもらうことも難しい。肝心の主役が料理を楽しめないのはかわいそうなのだけど、こればかりはどうにもならないらしい。そのかわり、ホテルがお弁当を用意してくれるそうで、未亜はそれを家に帰ってから食べることにしている。

 そこで問題になるのが25日当日。そのままホテルに泊まるのだけど、プロポーズを予定しているのにお弁当ではなんともしまらない。ホテルの外で食べようと思っていろいろと探してみたものの、21時過ぎていると居酒屋のような店しかなく、おおよそプロポーズに向いた雰囲気ではなかった。


「うーん、確かにそれは困った話ね。あー、でもランが横浜みなとみらいホテル東鉄でディナーショーをしたときは、翌日の仕事の関係でそのまま宿泊することになって、『泊まっていただけるなら』みたいな話から、本来は時間外だけど、特別にインルームダイニングで対応してくれたような記憶がある。ちょっと担当者に確認するわね。」


 太田さんはそういうと早速ホテルの担当者へ電話をして。早緑美愛と雨東晴西が当日そのまま宿泊すること、時間的にもうレストランが終わっているので食事が出来ないことを伝えてくれた。揉めるかと少し心配になったのだけど、担当の方はすぐに何らかの提案をしてくれたようで、太田さんは嬉しそうにお礼をいって電話を切る。


「ディナーショーの出演者ということでホテル側が配慮してくれることになった。招待者向けディナー代金より高くなるけど、21時からインルームダイニングで特別に用意してくれるって。しかも未亜が食べられなかったディナーと同じものをセッティングしてくれるそうよ。」

「おおっ!良かったです!」

「先生の分については、どうする?」

「出来れば一緒に食べたいですね。」

「そうしたら特別に先生だけはショーの部分だけの出席に出来ないか聞いてみるわね。先生の予約した部屋の種類を教えてくれる?予約名は先生の本名でいいのよね?」

「はい、私の名前で予約しています。最上階のキングスイートベイサイドですね。」

「またすごいところ予約したわね。ちょっと電話してみるわ。」


 太田さんが電話をしようとするとどこかからかかかってきたようだ。こちらをちらっと見てうなずいたので、どうやらホテルの方から折り返しが来たのかな。やっぱり出来ないという話かと思ったら太田さんはお礼をいってあっさり電話は終わる。


「ホテル側も同じことを考えてくれてた。あと、先生の差額分と未亜のディナー分はチェックアウトの時でいいって。」

「本当ですか。ありがとうございます。」

「いえいえ。じゃあ、今日の主目的の場所へ行きましょうか。地下の社用車で連れて行くわね。」


 太田さんの運転する新しい社用車の助手席に座ると出発だ。ちょうど良いタイミングなので、移動中、父さんのいっていたことを伝える。


「えっ、そうなの!?」

「はい、確かに思い出してみると父はあのとき『最低でも高校生の間はプライバシーを確保してあげたい』という趣旨のことをいっていたんですよね。」

「そうか!それなら例の件はスムーズに進められるかな。」

「どんなことですか?」

「まず前提の話からなんだけど、実は、シークレットということで社内の主要関係者には、先生がプロポーズすることは既に話をしてあるのね。それで、協議をした結果、美愛が受けることと双方のご両親が了承してくれることを前提として、紅白の前日、30日に公表する方向でまとまった。」

「えっ、そんな日にですか?」

「うん、美愛にとって、紅白という舞台は日本中に名前を知らしめるいい機会なの。その前日に兼ねてからそう思われていた婚約の話がニュースとして報道されれば、俄然注目度が高くなるでしょ。」

「確かにそうですね。」

「私事を宣伝に使うようで申し訳ないのだけど、そこで注目度と好感度が高くなると来年の活動がしやすくなって、ドラマの主題歌と出演、それといままでぜんぜん取れなかったテレビCMが現実味を帯びてくる。」

「なるほど、そういうことですか。」

「うん。そのうえでね、いまの先生のお父様からの伝言を聞いて考えていたことを進めてみようかなってね。」

「どんなことですか?」

「百合のことなんだけど、前にちょっと話をしたときに芸名の話題になって、『いろいろと考えたんですけど早緑さんと同じ早緑っていう名字を使いたいんですよね。早緑さんはお姉ちゃんみたいな感じなので一緒の名字で活動できたら嬉しいなあって。でもきっとお父さんがOK出してくれないんじゃないかって思うんですよね』ってね。」

「えっ!」

「もちろん美愛にも相談して決めなきゃいけないんだけど、婚約を公表する前提で、私はけっこうありだと思ってる。」

「つまりそれって、私の妹だということも公表するっていうことですよね?」

「そうよ。美愛の義妹というインパクトがあれば出だしから俄然注目度が高い状態でデビューできて、しかもそこにあの惚れ惚れするダンスだからね。一気に階段を上がれる可能性が出てくるし、何より美愛や先生にもいい影響がある。」

「どんな感じですか?」

「百合と美愛が二人で共演っていう引き合いが絶対に増えるのよ。そこで本当に仲睦まじい様子を見せることが出来ると先生と美愛、先生と百合の関係が間接的に感じられるのね。つまり、三人の関係性はすごくいいことを示すことが出来る。」

「あっ、そういうことですか!」

「さらにテレビで歌うときに美愛のバックダンサーとして売り込むこともやりやすくなる。」

「確かにそうですね。」

「先生の実家にもう一度お邪魔して、この辺の了承はとるつもりだったんだけど、いまの話だと了承いただける確率がかなり高くなったわね。」

「個人的にそれは実現したいですね。」

「まだデビューの日程が具体的に決まったわけではないからこの先の話にはなるけどね。ちなみに百合もウイッグを使って変装するつもりみたい。」

「そうなんですね。」

「そのままだと大学ですぐに判っちゃうからね。」

「ああ、確かにそうですね。」


 百合もかなりいろいろなことを考えているんだなあ。兄として応援できる部分は援護してあげたいと思う。


「まあ、こういうことを考えられるのも先生と美愛が別れることはまず間違いなくありえないっていう実感があるからだけどね。二人が別れたら芸名変えなきゃいけなくなるから。」

「それはいえますね!」

「とても強固な関係だとはいっても指輪の予算はずいぶん思い切ったわね。」

「正式な婚約指輪はまたちゃんと贈るとしてもやっぱりちゃんとしたものを渡したいですしね。」


 今回贈る指輪は50万円の予算感にしている。


「それくらいの予算感ならいろいろと提案してもらえると思う。」

「けっこう関係が深いんですか?」

「そうよ。私がというより会社として、だけどね。うちが少女歌劇団を持っていた時代からの付き合いだからね。」

「そんな時代もあったんですね!?」

「歴史のある会社だからね。興味があったら大崎のホームページに載っている沿革とか見てみて。映画の配給とか全国各地で劇場の経営とかやっていた時代もあるのよ。」

「そんな時代があったんですね。」

「プロ野球の経営に携わっていた時期もあって、その関係で横浜RNAに出資してるの。」

「野球チームに出資もしてるんですか。」

「だから大崎のタレントが横浜球団の始球式に登場するのよ。来年あたりは美愛にも声がかかるんじゃないかと思う。」


 大崎って歴史の長い会社だと思っていたけど、いろいろなことをやっていたんだなあ。

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