第060話○あなたさえいれば

「そんなことが……。ひどい……。」


 太田さんは圭司のお父様から伺った話を私にも判るようにゆっくりと説明してくれた。

 お父様によると中学時代の圭司は、卒業した高校とは別の中高一貫校に通っていて、そこで上級生にあたる高校生たちから奴隷のように扱われた上に性的な嫌がらせをされたとのこと。中学時代の圭司が、思ってもみなかったひどい仕打ちを受けていたことに目がくらみそうになっている。

 主犯格の高校生とマツノキ出版の新しい担当者は同姓同名、しかも親は当時マツノキ出版の社長をしていたそうなので、新しいマツノキ出版の担当者は圭司を苦しめた人物で間違いなさそうだ。


「それで先生はその環境から逃れるために高校からの募集はほとんどしていない私立の男子校へ入学した、ということなの。毅然としたご両親がいたからなんとかなったけど、そうでなければ先生は今この世にいなかったかもしれない。」

「……。」


 私は頷くことしか出来なかった。


「先生があそこまで老成していたのは、自分の身を守るために知識を付け、人の考えや様子を先読みして動き、目立たないように一歩引いて行動するしかなかったせいで、それが習慣になってしまったからだったのね。」


 そうか、心の奥底を見せる関係に持ち込まない、あの違和感はそういうことだったのか。そして圭司からキスをされたことがないのもきっと……。


「こんな経験をしてしまっていたから同い年とは思えなかったんですね……。」


 圭司の抱えている闇の深さは、恵まれた環境で生きてきた私ではきっと理解出来ない。圭司のために私がしてあげられることなんてないんじゃないかと絶望の感情すら出てきて泣きそうになる。でもいまは泣いちゃダメなんだ。


「おそらくは嫌がらせをされていたときに撮られていたというビデオ。きっとそれが実はまだ残っていてその新しい担当者から強請ゆすられている、それが私の現時点での推論。ただ、ここから先をどうにかするには先生から本当の状況を語ってもらうしかない。だから二人で説得してみたいと思う。」

「できるでしょうか。」

「まずは私から話をしてみる。先生の現状について、気がついてもらえれば、あとの一押しは未亜、あなたの出番。」

「……わかりました。」


 太田さんと二人で圭司の部屋の前まで行く。防音のしっかりとしたマンションだけど、部屋の扉の前で話している内容はさすがに部屋の中にも聞こえる。太田さんはまず扉をノックする。そのあと、二人で扉に耳を付けながら太田さんが話をはじめる。


「先生、すみません。太田です。先生、いま起きてますか?」


 なにも反応が聞こえない。一度耳を離し、太田さんは再度扉をノックしてまた耳を付けて話しかける。


「先生、大変勝手ながら、先生のお父様にお目にかかって、いろいろとお話を伺ってきました。過去の先生の身に起きたことを承知した上で、私は先生を守るためにここに来ています。」


 中から何か動く音が聞こえた。扉から耳を離して太田さんと頷く。


「先生、突然の状況で昨日先生の身に何があったかまでは申し訳ないのですが、判りません。でも、いまの先生は大崎エージェンシーの所属タレントです。事務所はタレントを守るために存在しています。だから先生一人で何もかもを抱え込む必要はないんです。法務的な話や契約的な話であれば、法務部に交渉させます。もし先生の名誉が傷つけられるような話であれば、会社として申し入れを行います。脅迫や脅しの類いであれば、裁判や刑事告訴だって辞さない構えです。あなたのことは大崎エージェンシーがすべて支えます。あの契約はそれくらい重いものなんです。」


 太田さんがこちらを見る。私にいま出来ることは何も考えずに圭司への思いのありったけを伝えることだと意を決した。一回頷いて今度は私が語りかける。


「圭司、いまあなたの身に何が起きているのか、私には判らない、ごめんね。でもね、もし圭司が苦しんでいるのであれば……それは私も一緒になって……苦しみたい……それがもし……もし何もかも捨てなければ……ならないような……ことであったとしても……私は……。」


 声が詰まってしまう。涙声で話したくないのに。でもいまは話すことが大事だから。


「私は……すべて捨てられるよ……アイドルも……大学も……すべて……私はあなたさえいれば……私は……私は……。」


 鍵が開く音がした。扉が開いて中から圭司が出てきた!圭司に強く抱きしめられる。


「……未亜……ごめん……本当にごめん……。」

「ううん……そんなことないよ……そんなことない……。」


 しばらく二人で抱き合ったまま泣きじゃくった。


「先生、ありがとう……出てきてくれて……。」


 太田さんも泣いている。

 部屋から出てきた圭司と私はしばらく泣きながら抱き合ったあと、ダイニングのテーブルへ移動した。圭司の隣に座って、手を握って背中をなでていると太田さんがペットボトルのお茶を出してくれた。


「……先生、いろいろとつらいかもしれない。でもね、今のあなたには、ご両親以外にも未亜がいて、さらに大崎エージェンシーという組織が付いているの。あなたが犯罪を犯したのでない限り、私たち大崎エージェンシーは全力であなたのことを守る。だから、なにが起きたのか、教えて欲しい。」

「……はい、私の恥も何もすべてお伝えします。」


 圭司の眼が決心した眼になった。真実を聴くのは怖い。でも私はこれをちゃんと聴いて、その上で圭司に寄り添いたい。


「圭司、くれぐれも無理はしないでね。」

「うん、ありがとう。でもこれはいつかはちゃんと伝えなきゃいけなかったことだから……。まずは昨日のことからお話しします。」


 そういうと圭司はマツノキ出版で昨日何が起きたのか、語りはじめた。

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