初夏・彼

笹野ささ

第1話

「私たち、もう別れましょう」

彼女はそう言って僕の瞳を見つめ、それっきり何も話さなかった。気づけば無言の続く電話、合わない予定。思えば、今までサインはいくつかあった。でもどうして。右手の薬指、もうあちこちメッキの剥がれてしまった銀の指輪が鈍く光る。

僕は思わず言った。

「何がいけなかったんだ」

そうすると、彼女は悲しい目をして机に置いた手を眺めた。

「あなた、私がいることが当たり前だと思ってない?」

俯いたまま彼女が言う。

確かに、当たり前だとは思っていた。当たり前にそばにいて、当たり前に笑いあって……。そうであるのがまさしく自然なように思っていた。

「長い付き合いだろう、当たり前に思っていたさ」

いつでも暖かく迎えてくれて、どんなことも許してくれる、僕の帰るべきところ。彼女は僕にとって、そんな当たり前に特別なひとだった。

「……私ね、あなたの特別になりたかったの」

「そんなのそれこそ当たり前じゃないか」

「いいえ、違うわ。私と過ごす時間を、あなたに特別だと思って欲しかったの」

彼女は続ける。

「私と電話していても、あなたはずっと他のことをしてばかり。久々に会えたと思ったら携帯を見ていて、私が話していてもろくに聞いてくれなかった」

喉元までせり上がったなにかを堪えるように、彼女は言った。

「私との時間、本当に大切に思ってる?」

 彼女は僕にとって日常の一部だった。寄り添って生きることが当たり前で、僕はご飯を食べて、仕事をして、眠るのと同じように彼女を愛していた。僕は彼女のことならなんでも許せる気がしたし、彼女もそうだと思っていた。

「……ごめん」

「いいのよ、もう」

肘をつき、吹っ切ったような顔で遠くを見て彼女は言う。

「もう、いいの」


「お会計は私がするわ、どうせもう最後でしょう?」

そう言い残して彼女は椅子から立ち上がり、

「じゃあ、さよなら」

と言った。僕はそんな彼女の背中をただ眺めることしか出来なかった。机の上のコーヒーはとっくに冷めていて、口をつけると苦味が口に広がる。

 窓ガラスから店を出て通りを歩く姿が見えた。その目は哀しそうだけれどどこか凛々しくて、僕はそんな彼女の強さに惹かれたことを思い出した。

 追いかけるなら今しかない。僕は急いで店を出て、彼女の背中を追いかけた。走る、走る。必死に走ったところで信号が明滅して赤に変わり、彼女はその向こうで曲がり角に通りかかろうとしていた。

「待って!」

僕は叫ぶ。驚いて彼女が振り向いた。青に変わるまでのあいだ、僕たちはただ見つめあっていた。その時間が何分にも、何時間にも感じられた。

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