第一部 雲のある空の下で1
頭の上を春の風が吹き抜けていく。
ポカポカ陽気に汗ばんだ肌を、緩やかな潮風が撫でて清涼感を与えてくれる。
昨日の風は強かったけど今日の風はちょうど良かった。昨日はキャンバスがイーゼルごと吹き飛ばされそうになるくらいの強風だったし。
「さてと……」
海と山に囲まれた広島県竹原市忠海にある浦町高校に通う僕は、高校の屋上にイーゼルとキャンバス、それにパイプ椅子を持ち込んで絵を描くのが好きだった。
この忠海は瀬戸内の中でも十分に魅力ある街だと思っている。
海と山。瀬戸内と聞けば思い出す風景をこの町も持っている。
ただ西にはアニメの聖地としても有名となった竹原・製塩町があり、
東に行けばお城のある三原があり、さらにその先には竹原以上にドラマや映画やアニメの舞台となっている尾道がある。
また『竹原市』であるために竹原・製塩町あたりと一緒くたにされることが多く、どうにも地味な印象の町だった。
特筆できるところと言えば、ウサギと毒ガスの島『大久島』に行けるフェリー乗り場があるくらいだろうか。
そんな町なのだけど、僕は大好きだ。
とくにこの浦町高校の屋上から見下ろす景色は格別だった。
この浦町高校は山の中腹に立てられている。
屋上から見下ろせば、眼下にこの街の全貌を見下ろすことができた。
山に囲まれて佇む町の景色はまるで人の息づかいが聞こえるようだ。
その向こうには真昼の太陽を受けて輝く海。
その光の中で存在する影のような島々が見ることができる。
光と影のコントラストがとても綺麗なのだ。
(こんなに綺麗な町なのになぁ……)
あんなことさえなければ……っと、いけないいけない。
思わずしんみりとしてしまった自分に活を入れるように頬を叩いた。
余計なことは考えるな。思い煩うな。
すべて海と空の青に溶かして流してしまえ。
僕はキャンバスの前に座ると鉛筆を手に取り、紙面に滑らせた。
この街の姿を好きなように描く。
自由に、気ままに、誰にも邪魔されることなく。
筆がノる時は屋上の扉を閉めに来た警備員のおじさんに怒られるまで描き続けるし、ノらない時はそのままゴロンと横になってふて寝する。
ただし、冬場にこれをやると凍死する怖れがあるけど。
そんな気楽さもまたこの場所の魅力だった。
ピッ、ピッ、ピッ……ポ~ンッ
屋上に据え付けられたスピーカーから時報のような音が聞こえてきた。
続いてエコーのかかった女の子たちの声が響き渡った。
『ボクたちの声が聞こえますか?』
『アナタに届いてますか?』
『柄沢ヒカルと!』
『森本明日香の!』
『『 GOO♪ラジオらす! 』』
突然のタイトルコールの後で明るく軽快な音楽が流れ出した。
「あぁ、もうそんな時間なんだ」
この二人の声が聞こえてきたら、それは十二時半を回った合図だ。
『みなさんこんにちわ。浦町高校二年A組、柄沢ヒカルです』
『同じく、みなさんこんにちわ。浦町高校二年C組、森本明日香です』
『いや~この放送も十回目だよ、十回目。長寿番組になったね~』
『えっ、十回程度で長寿番組って言っちゃっていいの?』
『だって十回って行ったら打ち切りアニメなら1クール分になるし』
『なんで打ち切りアニメ基準なの? 普通十二話じゃない?』
『私たちのラジオはこれからだ!』
『うん、今回の放送始まったばかりだからね。打ち切りっぽく言ったけど』
『私たちのレディオは壊れかけだ!』
『なにかの歌詞っぽくなっちゃった』
『う~ん、タイトルコール後のMCって難しいよね。もうネタ切れ』
『べつに掴まなくったっていいんじゃないですか?』
『よし。じゃ、今度からは明日香が何か一発芸をやるってことで』
『無茶ぶりはやめてください! それに声だけでできる一発芸って……』
『声真似とかやればいいじゃない。化学の平林先生の真似とかしたら?』
『「(早口で)ダカラオマエハナニヤッテンダ!」……ってゴメン無理です』
『ぶ、わははははは……いいよ明日香。コーナー化しよ。くくくく』
『もう、そんなに笑わないでください!』
浦町高校昼休み校内放送番組『GOO♪ラジオらす!』。
どういう経緯で始まったのかは知らない。
二週間ぐらい前から元気なボクっ娘の柄沢ヒカルさんと、お淑やかなお嬢様風の森本明日香さんが、昼休みの時間にラジオ番組っぽいものを放送をしていた。
放送室前に投稿箱を設置して、そこに寄せられたメッセージを番組へのお便りとして紹介している。なかなか堂に入っていて天然な二人のやりとりが面白かった。
目の前のキャンバスに視線を戻した。
絵を描く時には静かな場所がいいという人も多いけど、僕はにぎやかな場所で楽しそうな声に耳を傾けながら描くのも好きだ。
二人の楽しげな雰囲気に心が軽くなるようで筆の運びもスムーズになる。
(この学校ではもう二度と……なんて思っていたけど)
二人のおかげで僕はまた楽しく絵を描くことができるようになった。
「誠一……川村誠一!」
「っ!? 夏樹?」
急に声を掛けられて振り返ると同級生の女の子が呆れた顔をして立っていた。
「まったく、またこんなところで授業サボってたのね」
新谷夏樹。
短い髪に真っ直ぐな瞳。飾り気はないけど端整な顔立ち。
快活そうな見た目から体育会系と思われがちだけど、実は元美術部だったりする。
ただ、すでに美術部は廃部されているのだけど。。
夏樹とは小さいころ、肺の病気を患って長期入院していたときにじ病室になって以来の幼馴染みだった。
「春花さんから頼まれたんだよ。新しく病室に飾る絵を描いてくれって」
春花さんとは夏樹の姉だ。
現在は子供の頃に僕らがお世話になった『しらゆり医院』で看護士をしている。
まだ二十代前半の春花さんは、夏樹の顔をさらに女性らしくした感じのおっとり系美人で、誰にでも気さくに接する明るい性格のため患者さんから人気だった。
一見するとまさに白衣の天使なのだろうけど、その中身は無意識のうちに相手を振り回す『白衣の小悪魔』で、僕と夏樹はわりと振り回されていた。
そんな春花さんが以前に僕の描いた絵を病院の廊下に飾ったところ、患者さんたちの評判が良かったらしく、それ以来、ちょくちょく病室に飾る絵を描かされていた。
「もう……それでも授業サボっちゃだめでしょ!」
「出席取ってるわけでもないんだからいいんじゃない?」
「いいわけないでしょ! まったく、スマホが使えないと呼び出せないから不便よね」
「スマホって、まさか夏樹……」
僕が慌てたように言うと、夏樹は小さく首を横に振った。
「わかってるわよ。ちょっとした冗談じゃない」
「……洒落にならない冗談はやめてほしい」
僕が憮然とした顔で言うと、夏樹は手を合わせた。
「ごめんって。そんなことより……姉さんからの依頼じゃ大変でしょ?」
夏樹は絵の具入れの中の『赤』を手に取りながら言った。
「まぁね。血の色である『赤』や、死を連想させる『黒』が多いのもダメ。恐怖による発作を起こさせるような物は描いちゃダメ……好き勝手言ってくれるよ」
「ごめんね。注文の多い姉で」
夏樹は片目をつぶりながら舌をペロッと出した。
こういうときカワイイって得だよなぁと思う。
入院していたときも子供部屋の壁にクレヨンで落書きしたり、「三時になるまでは食べちゃダメよ」と言われていた共有冷蔵庫のプリンを、こっそりと食べてはこんな顔をしていたっけ。
「断ってもいいよ? 姉さんにはあたしから言っておくから」
「やり甲斐はあるよ。患者さんを元気づけられるかもしれないし」
「ふ~ん……『ラベンダー』みたいに?」
「うん。あの『ラベンダー』みたいにね」
病院階段の踊り場の壁に掛けられた絵画。
そこには白い花瓶に活けられたラベンダーが描かれている。
その背後には白い窓枠とそこから除く青空。
そして寒色系の冷たさを和らげるように花瓶の下には薄紅色の敷物が敷かれていた。
なんとなく花嫁さんが投げるブーケのようにも見えた。
あの頃は絵画に興味なんてこれっぽちもなかったけど、それでもあのラベンダーに特別ななにかを感じていた。
病院の中にずっと居たせいかもしれない。
あのとき僕らが思い描いたのは花瓶の中のラベンダーなんかじゃない。
一面のラベンダー畑だった。
「病気と闘う元気をもらったもんね。パワーがあったよ。あの絵には」
「お医者さんの言うことを聞かなかった誠一に画家を目指させるほどね」
「言うことを聞かなかったのは夏樹だと思うんだけど……」
まあ、あの絵がなかったら僕たちはこの場所にいなかっただろう。
それだけの力があの絵にはあった。
「それで? 絵はできたの?」
夏樹はイーゼルの端に手を掛けながらキャンバスを覗き込んだ。
キャンパスの中に広がる真昼の忠海の景色。
淡いタッチと色遣いで仕上げて、全体的に寒々しくならないようにまとめている。
青い空と海に白い雲と、この町は寒色系が多いからね。
ただキャンバスの上の方だけはなにも描き込まれてはいなかった。
「なんで上の方を開けてあるの?」
「空が……今一つなんだ」
見上げた今日の空は青く澄み渡っていた。
ここ数日間は快晴が続き、そういえばしばらく雲の姿を見ていなかった。
洗濯物は良く乾くけど、あまりに空が青く澄んでいると海と繋がってしまう。
瀬戸内の島影が空に浮かんでるようにも見えてしまう。
「もう少し時間を置いてから描くつもりだよ」
せめて青空がその空の色合いを薄めるまで待つつもりだった。
夏樹は「ふぅん……」と言ったあとで、なにかを思いついたような顔をした。
すると僕の両肩に手を置くと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「な、なに?」
「それはつまり午後の授業はサボらないですむってことよね」
「あ、いや……」
……しまった。これでサボるにサボれない。
夏樹は僕の怠け癖を理解しているため、怠けないように手綱を引いている。
だから絵も描かないのに授業をサボることは絶対に許してくれなかった。
本当はノンビリ昼寝でもしてようと思ったのになぁ……。
「どうせ夕方までここで昼寝でもしてようと思ったんでしょ?」
「…………」
腰に手を当てた夏樹にズバリ言い当てられてぐうの音もでなかった。
付き合いが長いっていうのも考えものだ。
授業に出ないことへの文句を並べ始めた夏樹から目を逸らしながら、スピーカーから流れてくるパーソナリティー二人の声に耳を傾けた。
ちょうどお悩み相談コーナーがやっているようだった。
『続いてのお便りです。ペンネーム【湘南なのに山ばかり】さん。……山ばかり?』
『小田急線で相模大野から厚木の方に行けば山ばかりですね』
『詳しいね……えっと……
「ヒカルさん、明日香さんこんにちわ。私は軽音部なのですが部員が足りずに困っています。先日から先輩方はよく一人でギターを弾いているT先輩に声を掛けているのですが、「お前らとは方向性が違う」とか言って耳を貸してくれません。かといってこのままでは私達のバンドは活動することができません。先輩にはどうしても私たちのバンドに加わって欲しいんです。どうしたらいいでしょうか」
……という質問です』
『もしかしてこのT先輩って……』
『ん? 明日香の知り合い?』
『うん。心当たりがあるかも……』
『へぇ~、じゃ、明日香からアドバイスしてあげて』
『え、私? えっと……【湘南だけど山ばかり】さん。もし本当に、どうしても、その人の力が必要なら諦めないで誘い続けて下さい。その人にとっても一緒に歌って音楽を奏でてくれる仲間は大切だと思います。一緒に歌おうって誘ってあげて下さい』
『だ、そうです。これでアドバイスになったでしょうか? ……さて、続いてのお便りですが……えっと……【ラベンダースの犬】さんから』
「……なんかすごいネーミングセンスだね」
「あ、これあたしだ」
「夏樹なの!?」
「しっ、ちょっと黙ってて!」
『「ヒカルちゃん明日香ちゃんこんにちわ。いつもこの放送を楽しみに聴かせてもらってます。私の姉はしらゆり病院で看護士をしているのですが、最近入院してきた子が心を開いてくれないと悩んでいます。小学生の女の子なのですがとある事情により心を閉ざしてしまっているようなのです。いつもは天真爛漫な姉が憔悴する姿を見るのは忍びなく、私にも何かできることがあればと思うのですが……どうしたらいいかわかりません。お二人はどうしたらいいと思いますか?」』
『な、なんか本格的なお悩みだね……』
『本格的すぎてボクたちの手には負えなそう』
「あぁ、やっぱりか……」
そう言って夏樹は肩を落とした。
「メールに書いたことってホントなの?」
あの春花さんが憔悴している姿なんて想像できない。
しかし夏樹は「そうみたい」と頷いた。
「あの姉さんが珍しく落ち込んでたから……心配で」
幼いころに母を亡くした夏樹にとって、春花さんは母親代わりでもあった。
だからこそ夏樹は春花さんを敬愛している。
一方、春花さんは春花さんで夏樹のことを溺愛していて、いつも過剰なほどのスキンシップで夏樹に接していた。
二人の仲の良さを思うと……やはり心配だろう。
『でもヒカルちゃん、なんとかアドバイスして上げられないかな?』
『そうね……いっそこの放送を聴かせるってのはどう? どんなに暗い気持ちも笑顔でぶち壊すこの放送“GOO♪ラジオらす!”をどうぞよろしく、ってね』
『それは教育上よろしくないんじゃないかな』
『ちょ、それどういう意味!?』
『ラベンダースの犬さん。まずはその子と向かい合うことだと思います。しっかりと向かい合ってその子が何を望んでいるのかをしっかりと見極めて下さい。私から言えることはこれだけですが、まずはそれからだと思います。頑張って下さい』
『無視するなぁ!』
う~ん……アドバイスになってるんだかいないんだか。
そう思って横にいる夏樹の顔を見たら、
「うん。そうだよね。まずは向かい合うことからだよね」
「………」
意外とアドバイスになっているみたいだった。
腕時計で時間を確認する。
(っと、そろそろ昼休みも終わるころか……)
なにやら熟考し始めた夏樹を余所に画材を片付けるのだった。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わり、下校しようと夏樹と階段を下りていたときだった。
階段前の廊下で男子生徒と女子生徒がすれ違う瞬間に出くわした。
その男子生徒が女子生徒に向かって「よっ」と手を挙げた。
しかし、それを見ていたはずの女子生徒は、彼に対して一切のリアクションをとることもなく、黙って彼の横を通り過ぎていった。
無視された形になった男子生徒はしばらくその場で突っ立っていた。
それは……この世界ではあまりにもありふれた光景だった。
「夏樹、ちょっと待ってて」
「え、なに?」
先を歩く夏樹を呼び止め、僕はその男子生徒のほうへ近づいた。
「天野くん」
話しかけると彼は少し驚いた顔をし、そして小さく笑みを浮かべた。
「川村……いまから帰り?」
「うん、まぁ……」
そう答えると天野くんはチラリと夏樹のほうを見た。
「リア充爆発しろ、って言葉はもう死語のなのかな」
「なに言ってるのさ。まったく」
溜息交じりに言ったけど、天野くんの表情が気になっていた。
軽口を叩いてはいるけど、その笑顔はどこかぎこちなく陰りを帯びていた。
「その……疲れてない?」
そう尋ねると彼は少し顔を曇らせた。疲れてないはずがない。
見ているこっちが痛々しいほど、彼は無理をしているように見える。
下手に誤魔化されたくなかったので彼の顔をじっと見つめる。
彼は居たたまれなくなったのか視線を外した。
そして光の差し込む廊下の窓から外の景色を眺めながら言った。
「こんなの日常茶飯事だろ。気にしたほうが損ってもんさ」
「気にしてないようには見えないんだけどな」
暗くならないように軽い調子でそう言うと、天野くんは苦笑を浮かべた。
穏やかな午後の日差しがひっそりとした廊下に差し込む。
そんな穏やかな静寂の中で、天野くんは首だけ動かして僕の背後を指し示した。
そこには手持ち無沙汰そうに僕を待っている夏樹の姿があった。
「ほら、幼馴染みが待ってるぞ」
「あ、うん……」
「大事にしなよ。声を掛けたら応えてくれることが当たり前だと思ったらダメだ」
「それは……わかってるよ。自分がどれだけ恵まれてるかも」
僕がそう言うと、天野くんは一瞬キョトンとしたあとで肩をすくめた。
「お前が恵まれてるかどうかはしらないけどさ。それでも……一度失ったら二度と手に入らないモノってのもあるみたいだ。大事なら、絶対に失くすな」
天野くんは僕の肩にポンと叩きながら去っていった。
掛ける言葉も見つからず、僕は黙って彼の背中を見送ることしかできなかった。
これからも彼は……どんなに傷ついても彼女に声を掛け続けるのだろうか。
「うちのクラスじゃないよね。どういう関係?」
階段の下のほうから僕たちの様子を見ていた夏樹が尋ねてきた。
「A組の天野竹流くん。屋上で絵を描いてるときに知り合ったんだ」
一ヶ月ほど前の昼休み。
屋上で絵を描いていたときに、たまたま屋上に来た天野くんと出くわした。
なにも話さないというのも気まずいので世間話なんかをしているうちに、そこそこ自然に会話できるくらいの仲にはなっていた。
それこそ、彼の抱えているものを聞けるくらいには。
「? どうしたの?」
「……んーん、なんでもない」
でも、僕には彼の心を占めている問題を解決して上げることはできない。
僕には夏樹がいて、春花さんがいて、そして二人とも笑っている。
「恵まれてる……ってことなんだよな……」
恵まれている側からなにを言ってもそれは綺麗事になってしまう。
せめて真っ直ぐ向き合える人が、彼の前にも現れてくれることを願うしかなかった。
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