8.

 家に帰った私は、そのまま自分の部屋にこもった。本当はお腹が空いてたけど、でも、梅吉兄さんに会いづらくて。だから食欲がないってウソついて、食卓には行かなかった。


 だけど、あとで藤助兄さんが、おにぎりとだし巻き卵、竜田揚げに漬物、それからおみそ汁を持って来てくれた。


 兄さんに、

「無理しないで食べられるだけでいいからね」

なんて言われちゃって、ちょっと罪悪感。だけど食欲には勝てないよね。ぺろりと全部食べちゃった。


 そんなせっかくのおいしかった夕食も、だけど素直には喜べなかった。藤助兄さんをだましちゃったこともあるけど、それ以上に梅吉兄さんのことが気がかりだった。兄さんを叩いた右手が時間が経っているにも関わらず、まだ、じんじんと痛んだ。


 叩いたのは、やり過ぎちゃったかもしれない。感情に流されやすいの、私の悪い癖だよね。


 一人反省していると、突然コンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。私が返事をする前に、外側から勝手に開いて……。


 その隙間から顔を覗かせたのは、予想がついていたけど梅吉兄さんだ。


 どうしよう。やっぱり怒ってるよね……?


 ばくばくと跳ね上がっている心臓をどうすることもできないでいると、梅吉兄さんは、

「なあ、牡丹。少し上に行かないか?」


「えっ。上って……?」


 思ってもいなかった言葉に、私はつい呆気に取られる。こてんと首を傾げさせる私に、梅吉兄さんは、くいと天井を指し示した。


 私は訳が分からないまま兄さんの指先をなぞり、ゆっくりとその先を見上げていって……。




✳︎




「うわっ……!」


「どうだ、気持ち良いだろう」


「はい、」


「とっても……!」と私は夜風に当たりながら後を続ける。


 さっきまで張っていた頬の筋肉は、いつの間にかすっかり解かされ。私はもう一度、短い歓声を上げた。


「私、屋根なんて初めて登りました」


「それはもったいねえなあ。こんなに気持ち良いのに。周りが明るいせいで星はあまり見えないが、これはこれでなかなか良い景色だろう。

 でも、落ちないよう気を付けろよ。

 あーっ。風、気持ち良いなあ。……なあ、牡丹」


「はい、何ですか?」


「お前、男と付き合ったことないだろう」


「えっ……。なっ……、何ですか、いきなり!?」


「ふうん、やっぱりな」


「やっぱりって、まだ何も言ってないじゃないですか!」


「なんだ。それじゃあ、あるのか?」


「いえ、ありませんが……」


 確かに梅吉兄さんの言う通りだけど。これからも男と付き合う所か、結婚する気もさらさらないけどさ。でも、だからってこうも簡単に決めつけられるのはなんだか癪だな。さらに笑われるのは、もっと癪だ。


 兄さんってば、デリカシーの欠片もない。けらけらと笑っている兄さんに、私はむすりと眉間に皺を寄せた。


「私はいいんです。誰も好きにならないって決めてるので」


「へえ、それはまた。まあ、別にいいんじゃねえの。どうするかは、お前の自由だ。

 そんじゃあ、そんな牡丹ちゃんに、とっておきの朗報だ。知ってるか? キスってさ、好きな相手じゃなくても簡単にできちまうんだぜ?」


「えっ……?」


 キスって……、キスって――!?


 何も言えないでいる私に兄さんは、にたりと白い歯を覗かせる。


 おまけに、

「なんなら今から試してみるか?」

なんて言い出して、月光の下、兄さんは私の頬にそっと片手を添えると、ぐいと顔を近付けて来た。


「なんて。冗談だよ、冗談。って、おーい、牡丹」


「聞いてるかー?」と、とっさに距離を取った私に兄さんは声を張り上げる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る