5.

 その光景に私の体は自然と強張る。逃げなくちゃいけないのに、体がうまく動かない。足と地面が接着剤でくっ付いちゃってるみたいだ。


 どうすることもできないでいる私だったけど、

「おい!」

と言う声に意識を揺すられ、振り向くと――。


 え……、菊……?


 なんで、どうして……。


 でも、その疑問を口に出す前に、菊が私とストーカーとの間に入り込んだ。菊はちらりと顔を私に向け、

「このバカっ!」

と怒鳴った。


「お前、何考えてんだよ!」


「何って、だって……」


 だけどこの続きが紡がれることはなく、代わりに私は、

「きゃっ……!?」

と再び刃物を出そうとしているストーカーに短い悲鳴をもらした。


 その光景に、菊はとっさに私のことを突き飛ばす。その衝撃で私は地面に尻もちを着いた。


 菊、危ない――っ!!


 私は座り込んだまま、そう叫ぼうとしたけど、その前に。


「牡丹ちゃん、菊くん――!」


「はっ、桜文兄さんっ!?」


 菊の次は、なぜか桜文兄さんが現れた。


 桜文兄さんの腕がぐいと伸び、ストーカーの襟元を掴んだ。兄さんは流れる動きでストーカーを背負い、そして。


 どしん――っ!!! と豪快な音がその場に強く轟いた。その衝撃で土埃が天高くまで舞い上がる。


 こんなきれいな一本背負い、見たことがない。私はその場に座り込んだまま、思わずパチパチと拍手を送った。


 次第に埃が収まり視界がクリアになると、ストーカーは地面の上ですっかり伸びていた。


 桜文兄さんはずるずるとストーカーを引きずりながら私達の元にやって来て、

「二人とも大丈夫だった?」

 そう訊ねた。


「はい、私達は……。それより、どうして桜文兄さんがここに?」


「予定の時間より早く試合が終わったから。やっぱり牡丹ちゃん達が心配だったから、迎えに行こうと思って」


 そうだったんだ。桜文兄さん、わざわざ来てくれたんだ……。


 桜文兄さん、とっても優しいな。天然で何を考えているのか、よく分からないけど。


 それに引き換え……。


「おい、お前。趣味悪いぞ。こんなちんちくりんなんか追いかけ回して」


 菊はまだ目を回しているストーカーに向かって、そう言った。


 桜文兄さんと違って、ほんとーに失礼なやつ!! 駆け付けて来てくれた時は、不覚にも少しだけど、どきっとさせられたのに……。


 思わず怒声を発しそうになったけど、

「ちがうっ!」

と私より先に声が上がった。その出所はストーカーの口からだった。


「ぼ、僕はただ、菊さんのサインがほしくてっ……!!」


「は……? 菊のサイン……?」


「はい! 僕、菊さんの大ファンで。この間の公演も観ました。とても素晴らしいジュリエットでした!!」


 そう言って男はまた懐中に手を突っ込むと、刃物ではなく、サインペンと色紙を菊に向かって差し出した。


「お願いします、菊さん。サインください!!」


 お願いします、ともう一度繰り返すストーカーに、私達は呆然とするしかなく……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る