07. マスクをしてください
バイトを始めてちょうど一週間が経った。仕事はだいぶ飲み込めてきたし、『マスク・消毒用アルコール・ハンドソープ・除菌ウェットティッシュ』の四大人気商品も全品欠品している時が割と減ってきて、何かしらはどの店舗にも置いてあるようになってきたらしい。伯父さんも私が来てからやっと社員さんたちの残業が減らせてよかったと言ってくれているし、社員さんもみんなよくしてくれる。けど…相変わらず、片桐さんだけはマスクをしないで毎日出社していた。
「あ~片桐さんね…あれでもマシになったほうなんだよね」
給湯室でたまたま一緒になった最年少女性社員・
「マシ、というのは」
「いや~今ってあの人毎日パイポってやつ咥えてるでしょ?私が入社した頃は仕事しながらフツーにタバコ吸ってたからさ」
「え…えっ?!」
「それまで割とおじさん社員ばっかりで、みんな気にしてなかったみたいなんだけど。私が社長に受動喫煙イヤです!!って訴えたら、止めさせてくれたみたい」
「そうなんだ……」
「だから、マスクも社長に言ってみたらすぐ直るんじゃない?仁礼ちゃんのおじさんなんでしょ?」
「それが…」
私が既に伯父さんに相談済みなことを話すと、日野さんはコーヒー片手に少し驚いた顔をした。
「え~そうなの…ちょっと意外。今けっこうまた感染者増えてきて「第2波が~」とか言ってるのに、『gotoトラベル』とかやるんでしょ?正直、そろそろマスクはしてほしいよね……」
「はい、どうしたらいいんでしょう…」
「うーん……社長が言ってもダメとなると……片桐さん社歴私より断然長いからさ、ちょっと言いにくいなぁ…」
「シャレキ?ってなんですか?」
「あ、社歴ね。この会社に勤めて長いってこと。それより長いのは…滝元さんと
「そうですか………」
gotoトラベルのことは知っていた。クラスのパリピ組が、早速夏休みに旅行の計画を立てていたからだ。私はというと、外食するのも不要不急かと悩んでテイクアウトして家で食べているくらいなのに、旅行になんて行けるわけがない。自粛すればいいの?旅行に行けばいいの?一般庶民がこのダブスタに困惑しているのを、日本の政府はわかっているんだろうか?
そして、もし……片桐さんがマスクなしのまま旅行に行ってしまったら。旅の中で利用した交通機関や宿のどこかで濃厚接触者になればPCR検査が行われて、陽性だった場合は感染防止の為、無症状でも二週間の隔離が確定する…それは私の高校でも、お姉ちゃんの大学でも、両親の職場でも通達されているコロナの基本対策だ。何故か毎日出社している片桐さんが罹ったとしたら…下手したら、会社のほぼ全員が濃厚接触者になる。万一クラスターにでもなれば、店舗は営業できても本部が運営できなくなってしまう。そうしたらこの会社は、伯父さんは、マスクを待っているお客さんたちは……どうなってしまうんだろう。
――私は覚悟を決めた。
私は急いで部屋に戻るなり、少し離れた席にいる片桐さんの2mくらい後ろに立った。勇気を振り絞って声を出す。
「…片桐さん」
「………あ?なんか用か」
椅子ごとくるりと振り向いた片桐さんは、話しかけたのが私だったことに少しだけ驚いたようだった。ボサボサの髪の間から、鋭い眼光がちらりと覗いてみえた。
「マスクをしてください。私の高校でも、全員付けています」
少し震えていたかもしれないけど、私は大きく口を開けてはっきりと発音した。部屋中がしんとしたのがわかった。
社歴の長い社員さんに、入って一週間のバイトが噛みついた――私が今やったのはそういうことだ。しかも今日は庇ってくれそうな伯父さんもいない。これで怒られたり空気が悪くなったりしたら、私はきっともう明日からここには来られないかもしれない…でも、このまま『くすりのタナハシ』が窮地に追い込まれてしまう可能性よりはずっといい。私はどうせ9月までのヘルプ要員なんだから、私がいなくなるだけで済むならそれが一番だ。
「…なんで俺までしなきゃいけねーんだよ?予防したい奴だけ付けてりゃいいだろうが」
ガリガリと頭を掻きながら、不機嫌そうな低い声で反論される。怒鳴られることも想定していた私は少しだけホッとして、僅かに小さくなった声で更に反論した。
「マスクに完全な予防効果はないです。マスクをするのは、『自分がコロナに罹っていた時、知らないうちに誰かにうつさないため』だから、全員が付けないと意味がないんです」
「ああ?」
さっきより大きな声で凄まれて、私の肩が揺れる。
「――そうなのか?」
けれど、片桐さんの返事は意外なものだった。
「でも俺別に咳もくしゃみもしてねーから、うつすこたねーだろ?」
「えっ、ええと、飛沫感染だから、喋るだけでもうつるので…」
「ヒマツ?なんの?」
え…もしかしてこの人、全然ネットとか見てないの?!
「唾です。咳やくしゃみだとすごく飛ぶけど、マスクなしだと…確か15分喋るだけでも感染するそうです」
片桐さんは顎の髭をしばらく触ったあと、椅子に深く腰掛けなおした。
「お前の言いたいことはわかった。……けど、持ってねーもんはできねえ」
「じゃあ……口にハンカチやタオルを巻くだけでも、効果はあるって…」
「んなもん巻いてたら仕事になんねーだろ」
「……もう、マスクの入荷は割とたくさんあるじゃないですか…?」
「今稼ぎ頭の商品をわざわざ俺が買ってどーすんだよ。んなことが客に知れたら、店の沽券に関わるかもしれねーだろうが」
「え………」
だって、社長の伯父さんから「あげるよ」って言われたはずなのに。社員さんもみんな買ってるのに、それどころか下手したら自分の家族のぶんだって買ってるかもしれないのに。
……この人、ひょっとしてものすごく律儀なだけなんじゃ…?
「それなら……私、予備あるので、あげます」
「ん?」
私は自席に戻ると、いつも鞄の中に入れている予備のマスクを2つ取り出す。白に薄い寒色系のストライプ模様が入ったガーゼハンカチを、ネットで拾った立体マスクの型紙で裁断して作った手作りマスクだ。ああ…でも今日に限って、両方ともおばあちゃんじゃなくて私が縫ったものだと一目でわかってしまって……私の声は尻すぼみになっていく。
「あんまりいい出来じゃないし、男の人には少し派手かも、しれないけど……」
「ふーん……これお前が作ったのか?」
「…はい…………えっ?」
あまりの自信のなさに下を向いていた私は、自分の手のひらにもうマスクが乗っていないことに気付いて驚いた。長い指でひょいとつままれた2つのマスク、片桐さんはそのうちのひとつをなんの躊躇いもなしにさっさと顔に付けていた。いつも咥えていた白い棒は、とっくにゴミ箱に捨てられている。
「早く付けた方がいいんだろ?これでいいのか?」
「は…はい!毎日付けてくださいね」
「……ん」
「あっ?!なにそのマスク~かわいいじゃないですか!まさか仁礼ちゃん突撃したの?!」
その時、部屋に戻ってきた日野さんが大きな声を上げてこちらに来てくれた。まるでそれが合図だったみたいに部屋の緊張が解けて、横山さんも席から声を掛けてくれる。
「片桐くん、髭が隠れるとけっこう印象変わっていいわね」
「あ~確かに!マスクしてた方がとっつきやすいかもですね」
「なんだそりゃ……」
「ええと、似合ってるってことじゃないですか…?」
「今はマスクはもはやエチケットの域だからね、なんでしないのかは気になってたけど…ニュースも見てなかったのね」
「えっ?えっ?何が明らかになったんですかー?!」
「売り物に手を出すのが嫌だったんだそうです…」
「えっ…義理堅い~!!みんな買ってますよ?!」
「そういうわけにもいかねーだろうが……」
「仁礼さん、お手柄ね」
「…ありがとうございます…」
日野さんに次々とツッコまれて、少し困りながら受け答えしている片桐さんを見ているうち…私はどっと力が抜けるのを感じた。本当に良かった。片桐さんは私を嫌ってるわけじゃなく、パリピ組みたいな人でもなくて、バイトの女子高生の話をちゃんと真剣に聞いてくれる人だった。私のちょっと不格好なマスクも、何も言わずに付けてくれて……
『根はすごく真面目でいい子なんだ』
伯父さんが言っていた言葉の意味が、今になってやっとわかった気がする。
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