5.誤DaiGo
先日、DaiGoなる人物がホームレスの人権を軽視するような発言をして問題となった。私自身は法に反しない限り日本国民はどんな発言でもする権利があると思っているから、この発言をしたこと自体が問題だとは思わない。ただ単にあまりにも学が無いというか、人権や経済に関する基礎的な理論をこの人が理解していないところが気になったので、この場を使ってそのあたりを確かめておくことにした。よって今回はそのような話であり、1332年に鎌倉幕府から謀反人とされ隠岐に島流しにされた後醍醐天皇とは特に関係が無い。twitterを見ていたら『誤ったDaiGo』で『誤DaiGo(後醍醐)』というジョークが見つかり、面白かったからどこかに使おうと思ったのだが、本文にはどうにも入れられそうになかった。こうして誤DaiGoはタイトルとなった。
さて、彼の発言の人権的側面からの問題提起を最初はしようと思っていたのだが……色々考えた末、その原稿は今回ボツとなった。というのも、この手の議論は彼が例の発言をした時点で活発になされ、そしてほとんど語りつくされてしまったからだ。私は文章を情報を伝達するツールだと割り切っているから、検索すればすぐに出てくるような話をわざわざすることに意義を感じない。だから今回は、他の人とは違った側面からDaiGoの発言の理論的問題点を洗い出してみようと思う。注目したのは『自分は税金をたくさん払っているのだから他の人よりも物申す権利があるのだ』という趣旨の発言をしていた点だ。この発言は、アダム・スミスから脈々と続く重商主義批判の論理を使うことによって、実に明快に否定することが出来る。そしてこの命題を解いてみることは、私たちが陥りがちな経済認識の誤謬を修正するとても有効な手立てになるだろう。うむ、この話はとても有益な議論になりそうだ。早速初めていこう。
一つ確認しておくことがある。それは、「労働力の価値と、労働の成果は完全に別物である」ということだ。資本家が労働者を働かせる給金というのは、単に「その個体がその能力・生活を維持するコスト」に過ぎない。名馬と駄馬、それぞれに同じ量の餌を与えても、一日に走る距離には違いが出る。この与える餌の量が労働力の価値であり、走った距離が労働の成果である。少なくとも、この場ではそう定義する。
事業というのは、労働力の価値に対して多くの労働の成果を挙げる名馬に餌と引き換えに仕事をしてもらう営みに過ぎず、餌の量と仕事の質・量は全くもって相関しない。だから事業者は餌さえ与えていれば余剰の成果をかすめ取るのが認められているし、その代わり成果が上がらないからと言って与えた餌の返却を求めることは出来ないのだ。
そう、労働力の価値というのは、それが単にいかに需要に対して希少で、いかにコストがかかるか、という物でしかなく、それとその成果の価値は完全に別の話なのだ。安月給だから価値のない仕事ということにはならないし、逆に高給だから価値がある仕事、ということにもならない。全部の仕事が必要で、だからあらゆる業態に従事する個体を保持する必要があって、そのために持つ者から持たざる者へ金を移動させる必要がある。税金とか社会保険料というのはそういう費用で、極言してしまえば「稼ぎ過ぎた人間への調整弁」に過ぎない。金をたくさん払っているからより価値のある人間だ、ということにはならないのだ。
仕事の価値と収入は比例しない、という事実をもっと直感的に確認してみよう。たとえば、一般的報酬で働いている農家が、全員突然仕事をやめたらどうなるだろう。恐らくその富の量に関係なく、世界のあらゆる人間が飢えに苦しむことになる。もはや、いくら金があっても食料が手に入ることはない。労働の成果としての財が生産されない限り、金があってもサービスや物を手に入れることは出来ない。財の本質は労働であり、金銭ではないのだ。金が無くても物の与えあいで経済は成立するが、物が無い状態の金の取引では成立しない。このことからも、物と金、どちらが経済の根幹であるかは明らかである。富とは労働であって、金ではないのだ。金銭の蓄積を貴ぶ重商主義は、この当たり前の部分を見落としている。小説家やメンタリストのような仕事で報酬がもらえるのは、単にそれらがたまたま何らかの需要を満たしているからであり、社会に不可欠だからではない。社会に必要かどうかで語れば、給料が安くとも大事な仕事はいくらでもある。
彼は「自分は税金をたくさん払っているのだから他の人よりはホームレスを支援している」というような趣旨の発言もしていたが、それも間違いだ。実際に支援しているのは現場で働いているスタッフであり、極端なことを言えば世界の全員が無給でもすべきことをすれば世界は回る。逆にきちんと給料が払われていても、誰も仕事をしなければ何もうまくいかなくなる。財・サービスの本質は労働であり、金はそれを媒介するものに過ぎず、本質ではないのだ。だから、度々言われる「払っている税金よりも受けるサービスのほうが多い人間は社会のお荷物である」というのも間違いである。低所得で払っている税金が少ない人間というのは単に搾取されている人間を含み、払っている税金が多い人間というのは単に人の成果をかすめ取っている人間を含む。
もっと語ろうと思えば語れるのだが……これ以上は枝葉末節の話になるので、これくらいにしておこう。既に私がこのエッセイを書く上で目安としている文字数である2000文字を超えている。私はこんな真面目な話ばかりではなく、もっとふざけた話をして、皆で楽しく暮らしたい。
というわけで今回はこの辺りで。皆さま、どうか健康にだけは気を付けて。
IQ148のうつ病患者から見える世界、あるいは哲学かぶれの覚え書き モホロビチッチ不連続面 @suiminnnojuuyousei
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