第809話_初恋
項垂れていたから、カンナがどんな顔で私の言葉を受け止めたのかは見ていなかった。一拍の沈黙の後、カンナが私の腕を撫でる。
「アキラ様のお傍に居られる今を、私はとても幸せに感じております」
穏やかで優しい声に、思わず顔を上げる。声が表す通り、カンナはいつもより穏やかな顔をしているように見えた。
「当時に感じた少しの寂しさや、自らを不甲斐なく感じた心の全てが……今を得る為に必要だったとするなら、それで良かったのだと思うのです」
彼女から『本当』のタグが出ている。カンナは真面目だから、きっと自らを『足りない』と思って本当に苦しかったと思うのに。それでもこんな風に言ってくれるなんて。
「この先もずっとそう思ってもらえるように、大事にするね」
またなんか伴侶に向けるような言葉になっちゃったが。他の表現が思い付かなかったので仕方ない。
話が途切れ、それぞれワインを傾けた後。カンナがふと顔を上げた。
「恋をしたことがあるか、という問いにまだ答えておりませんでした……申し訳ありません」
「あはは、いや、私が変な聞き方をしたせいだね」
問い方も半端だったからね、失礼な反応だったとは少しも思わない。というか私も質問したことを忘れていた。
呑気に笑い返したこの時の私は、「彼氏に恋をしていなかった」という話の流れに、油断していたのだと思う。
「強いて言えば……モニカ様でしょうか」
「え」
頭が真っ白になった。一拍後、モニカの姿が脳裏を高速で三往復した。
「えええぇぇ!? 見知らぬ元彼氏よりショックなんだけど!!」
思わず声を震わせて立ち上がった私に、カンナは驚いて仰け反っていた。そして最初に私のグラスへと目をやっている。思わず零すところだったけどぉ! 今そこじゃない!
「い、いえ、本当に幼い頃の、あの、憧憬でございます」
二人が会ったのはカンナの小さい頃に一度だけだと聞いている。しかしその初対面でカンナはモニカに対して強い憧れを抱き、初恋と言って過言でないほど、焦がれていたと言う。普段は家族に何も求めないカンナが、「またお会いしたい」と繰り返し願って困らせたのだとか。
いや、そんな。あんな人格者が初恋だったら誰も敵わないでしょ。なんて罪な女なんだモニカ。
お母さんも男性陣から取り合いされていたというし、遺伝だな。……それはカンナの方もか。オドラン伯爵もモニカのお母さんに惚れていたんだもんな。同じタイプに惹かれてしまう、そっくり父娘ということだ。
それにしてもモニカかぁ……。今は未亡人だね。
向こうもカンナのことをすごく可愛がっているし。いつか取られちゃったらどうしよう。どんどん不安が膨れ上がってしまった私は、まるで言葉も選ばずにバカな質問を口にした。
「……私とモニカが喧嘩したら、どっちの味方に付く?」
「アキラ様と敵対する者はどなたであろうと私の敵となります。モニカ様であっても、例外ではございません」
一切迷う間もなく即答してくれたのが嬉しくって、ぎゅっとカンナを抱き締めた。
「あ、あの、本当に、幼い頃の……あくまでも過去のことですので」
腕の中で一生懸命に説明してくれる。抱く力を強めた。全ての言葉にタグが『本当』を見せてくれたから、じゃあいっか! と思った。
「ありがとう。これからも私の傍に居てね」
「はい。それが私の望みです」
思い返せば、モニカとの繋がりを知るよりずっと前から私の侍女になりたいと言ってくれていたんだから、大丈夫だよね。まだちょっと嫉妬は残るけど、ひとまずは安心だ。
ちなみにカンナのお姉ちゃん達の初恋もモニカなんだって。アグレル家、母娘でオドラン家を無双してるねぇ!
そりゃあ、アグレル家が襲撃された時に揃って「出兵だ」って騒ぐわけだよな。踏み止まれたことを心から尊敬するよ。
お父さんも、個人の感情で言えばきっと出兵したかったんだろう。だけど伯爵位を担う責任ある立場として、そして家族を守らなければならない当主として、飲み込んだんだと思う。
今日はお茶目な話ばかりを聞いてしまったけれど。きっと立派な人だね。
その後もちょっとだけカンナの御実家の楽しい話を聞かせてもらって、やや遅い時間からのベッドになった。しかし久しぶりだったので、ベッドでの楽しい時間も長めに貰った。
つまり、かなり夜更かしさせてしまった。
「――アキラ様」
「うん……え?」
にも拘わらず。翌朝、カンナに揺り起こされる私である。寝坊しました。昨夜はカンナの方が疲れただろうに。驚いて高速で瞬きを繰り返す。
「ごめん、お、起きます」
「いえ、ご無理なさらないで下さい」
起き上がろうとした私を軽く制したカンナは、むしろ寝かし付けるみたいにそっと私の腕を撫でた。それ力が抜けてしまうよ……。くたりとシーツに沈む。大人しくなった私の背を、またカンナが撫でた。
「転移魔法で、アパートにメモを送ることは可能ですか? 帰りが遅れるとだけ伝えれば、ナディア達も気にしないでしょう。もしそれもご負担でしたら、私が先に伝えに戻ります」
「んあ~……」
なるほど。長く過ごしているアパートになら、通信用魔道具みたいな目印が無くってもメモくらい送れそうだ。
少し悩んでから、私は諦めてシーツに包まった。
「あと、三十分だけ横になる……って書いたメモを作って。送る」
「承知いたしました」
指示通りにすぐさま用意してくれたメモを、ダイニングテーブルへと転送した。きっと毎日早起きのルーイが見付けてくれるはず。
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