2−3

 わたしはずっと授業に集中できなかった。

 午前中の授業をぼんやり過ごした。今日は適当なことを言って早退しようかな、と考えた。でも、もっと重要なときに休むために、いま無駄玉を撃ちたくない。

 昼休みも終わり、五限は日本史だった。レジュメが配られて、教師がそれに沿って説明するだけ、の退屈なものだった。ふと新しいルーズリーフに、

 笹岡奈緒美

 と書いてみた。

 胸糞悪かった。

 そして続けた。

 授業を終えるチャイムが鳴り、書きものを中断すると、妙に気持ちがざわついた。休憩時間に熱心にルーズリーフに文字を書き連ねていたら、まわりは不審に思うだろう。ただでさえわたしは、西村のおかげでめんどくさい認定されている。べつに気味悪がられるのは気にならなかったが、内容を覗き見されたくなかった。

 六限の授業は教室移動で、書くことができなかった。とにかくあのルーズリーフに文字を埋めたいと気が焦って、まったく集中できなかった。

 気持ちが暗い情熱に駆られたまま終業し、わたしはすぐに図書室に向かった。

 途中で昨日の女子が呼んだ気がしたが、無視した。申し訳ないけれど、笹岡奈緒美に似ている、と西村が言ったことで、余計に不愉快に思えてくる。

「ああ、いらっしゃい」

 沢口さんがわたしを迎えた。「どう? 昨日の本」

「まだ読んでないんです」

 わたしは言った。

「忙しいんだね」

「心が」

 わたしはカウンターから離れた自習用のテーブルに座った。

「珍しい」

 遠くから声がした。

「たまにはね、大学受験もあるし」

 そんなふうに言ったけれど、参考書をひらくわけでもなく、わたしは授業中に書いていたルーズリーフを出した。

 書いたところまでざっと読んでみた。


 笹岡奈緒美はわたしたちの通うーー西村の父である住職が経営するーー保育園の保母だった。人当たりがよく、いちばん若かった彼女は園児に人気だったし、保護者からの評判もよかった。なぜ当時ガキだったわたしがそんなことを言うのかというと、家族が「笹岡先生はいい人だったのにねえ」とたまに思い出しては名前を出すからだ。

 当時わたしと西村は、寺の奥の部屋に隔離されて過ごした。大人の監視もなく、わたしは好き勝手に過ごしていたからなんの不服もなかった。けれど、笹岡先生はわたしたちを気にして、たまに部屋にやってきた。

 あやとりや、ゲームをしては、「ちょっと寄っただけだから」と言って足早に去っていく。正直、幼かったわたしはそういう気遣いを疎ましく思った。すぐにいなくなるのなら、わざわざきてくれなくてもかまわない。生き物ーー人間に向かって言うのもなんだけどーーというのはどんなに些細な存在でも、場の空気を変える。慌ただしくやってきては去る、10分もいないのに、去られると、なんとなく不在の雰囲気を感じ、寂しさが漂う。

 べつにあたりまえにいてくれるものとは思わなかったけれど、やはり、「いない」ことはどこか暗くさせる。それを払拭しようして、やたらとはしゃいでしまう。悪循環だと思った。

 なんとなく、彼女が甘い匂いを放っていたからかもしれない。部屋にしばらく残るその香りが、妙に苦しくさせた。

 九亮の態度も気に入らなかった。あいつは大人に妙に媚びる。当時保育園にいたときも、「笹岡ちゃん笹岡ちゃん」

 と甘えていた。

 いまにして思えば、九亮には母親がいなかったから、大人の女の人に甘えたかったのだろう。九亮の母親は、九亮を産んですぐに死んだ、と聞いていた。西村の家族は、九亮の父である住職と、父の弟だという叔父さん、そして寺で昔から働いているおばあさんだった。

 母親が物心ついたときからいない、という状況をわたしはまったく理解できなかった。園児たちが母とともに帰っていくのを、九亮はどう見ていたのだろう、と思う。そんなことを訊ねることはしない。

 あの、野原で起こった事件以来、わたしはしばらく九亮に会うことがなかった。しばらく入院して、退院してきても、前と同じように寺で一緒に過ごさず、保育園で過ごした。

 暴れ者の帰還。園児たちもわたしに寄り付かなかったし、べつにこちらも平気だった。勝手に駆け回り、ひとりで遊んだ。

「みんなと一緒に踊りましょう」

 笹岡先生が話しかけてきても、

「踊らない」

 と横を向いた。

 完全にめんどくさい問題児である。

「でも、九亮ちゃんに教えてあげないと、ね」

 笹岡先生は言った。「また九亮ちゃんに会うとき、たくさん遊ぶためにも、ね?」

 なぜ教えなくちゃなんないんだ。九亮だって、こんなばかみたいなお遊戯嫌いに決まっている、とわたしは反抗したかったが、しぶしぶ頷き、踊りの輪に加わったりした。

 いつ会うことになるのか。

 わたしは能天気で子供を小馬鹿にしているようなしょうもない音楽に合わせて、踊りながら考えた。

 九亮は自分の家族といても楽しくはないらしい。それぞれが好き勝手なことをしていて、まったく相手にされていないようだった。

 むしろわたしは、家族の過干渉や思い通りにいかないことばかりだったので、逆にそのほうがせいせいする、と思っていた。

 羨ましいとすら、子供の小さい脳みそで自分勝手に考えていた。

「九亮ってさあ、いまどうしてんのかな」

 わたしは家に帰って母にそれとなく言った。

「ああ、退院して、しばらくお部屋で休んでいるみたいね」

「悪いの?」

「うーん、体は大丈夫らしいのよ。検査を受けても悪いところはなかったって。でもねえ、あんなふうになっちゃったら……」

 子供に言うべきか迷ったのであろう、母の言葉は歯切れが悪かった。

「犯人見つかったの?」

 その言葉を口にするたび、フィクションみたいに感じた。まだわたしは、世の中に分かり合えないやつはいても、悪いやつ、自分を脅かすような存在がいるなんて思いもしなかった。

「さあ、とくに聞いていないけど」

「わたし、もっと強くなろうかな」

 わたしはふと、思った。

「やめてよ! これ以上お転婆になられたら困るわよ。うちの襖穴だらけでお客さん呼べないんだから」

 母が顔をしかめた。

 悪いことをするやつがいる。

 アニメみたいに。

 ほんとうにいるのだ。

 だから、強くなったほうがいいのではないか。

 九亮は弱かった。

 子供だからあたりまえだ。わたしだってそう。

 でも、負けたくなかった。

 アニメだって、九亮の好きななんとかレンジャーだって、悪いやつをやっつける。

 踊りなんかより、パンチとかキックを学びたい。

 わたしが急にシャドウボクシングみたいに拳を前へ突き出すと、

「もうちょっと女の子っぽい興味ないの、あんた」

 と母が肩を落とした。

 それからしばらくして、また九亮の身に事件が起こった。

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