第十一話の9

 ヴルゥに体を破壊されたとき、不思議なことが起きた。それは物質界ではまず起きえず、エーテル界という観念的空間ゆえの現象と言えた。すべては、一つの体に二つの意識が存在していたことが原因だった。

 体を動かす表意識のイャノバが、「やられた」と思った。

 イャノバの意識を観測していた裏意識のレッドカイザーが、「イャノバがやられた」と思った。

 そして、レッドカイザーのエーテル形質からイャノバの意識が切り離された。レッドカイザーはイャノバの意識が遠く、闇の底へ沈んでいくのを見送る錯覚を得た。死んだのではない、下位世界へ戻っていくのだ。宇宙の引力と斥力とによって。

 残った半身はエーテルに還らず――そもそもエーテル起源の体ではないために――レッドカイザーの支配下となり、その意志の赴くままとなった。

 事態の急転に、レッドカイザーは自身でも意外に思うほど焦ることはなかった。

 すでにヴルゥへ対抗できるほどの力はない。今は次の一撃が来るまでの時がわずかでも先になることを祈り、イャノバの仕事を引き継ぐしなかないのだ。

 ここで宇宙創生が終わってしまったらどうなるだろうとレッドカイザーは考えた。おそらく余分な力はヴルゥのものとなるだろう。下位世界へ流した力が逆流してヴルゥを支配する、などということは想像したくなかった。

 宇宙が無限に並列して存在する以上、ヴルゥが生き永らえてもイャノバの宇宙を再度攻めることはできなくなるだろう。下位世界といえば一つの宇宙を指していたものが、今はそうではないのだから。向こう五十億年は、いずれの下位世界も平和でいられるはずだった。

 レッドカイザーはヴルゥの様子を確認した。

 ヴルゥは明らかに動揺していた。自分のやったことを、自分で驚いているようにも取れた。レッドカイザーはその状態を知っている。ヴルゥもまた、自身の内にある炎を御しきれていないのだ。

 力が遠くから集まってきていた。宇宙の壁を作る炎から、そして目前のヴルゥから、あまねく宇宙の炎の力が集いつつある。

「や……やめろ! 今度こそ微塵も残さず消してしまうぞ!」

 ヴルゥはレッドカイザーに向けて炎を放つ構えをとった。ヴルゥのそれが虚勢であることを見抜きながら、レッドカイザーはあえて挑発するようなことを放った。

「やりたいならやるがいい。どの道私には抗うすべはない」

 ダーパルやハンバスの命を奪ったことへの怒りを、レッドカイザーはそこに込めた。宇宙の壁がみるみる薄くなっていくのを感じる。ダーパルとハンバスの繋いでくれた時間が、宇宙を開こうとしていた。

 ヴルゥは構えたまま、炎を放つことはなかった。力が失われたわけではない。ただ、代わりにこう放った。

「あなたにとって、私はなんだったのですか」

 レッドカイザーの予期せぬ意味の放流を、ヴルゥは続けた。

「私はあなたの代替として王となった。しかし、宇宙を灼いた偉大な王と比べられることは決して少なくありませんでした。王のエーテルを純粋にこの身に受けながら、私は多くの生命に見下され、能力の欠如を示唆されました。あなたの築いた基盤が揺れ、エーテル界に再び混乱が訪れようとした時にようやく思いついた両世界平定も、他でもないあなたに否定された。教えて下さい、なぜ私はこれほど苦しまなければならなかったのですか。私はただ、あなたの後継として相応しい働きをしたかっただけなのに。私はただ、皆に認められたかっただけなのに!」

 ヴルゥの抱いていた感情は、下位世界の生命のそれによく似ていた。炎の力が物質界を創るものだったからか、あるいは下位世界起源の意識を持つレッドカイザーの子ゆえにか。しかし、その葛藤はエーテル生命の性に染まっていってしまったのだ。闘争と言う名の一本道に迷い込み、ヴルゥは振り返ることすら忘れてしまっていた。誰かと争うこと、その道しか選べなくなってしまっていた。

 レッドカイザーの消滅の時は近かった。

 質量からイャノバを失った今、レッドカイザーに元の宇宙へ戻れる保証はない。物質宇宙の質量は常に一定なのだ。欠けた穴埋めとしてイャノバが引き戻され、一度宇宙を灼いて創り直したために、レッドカイザーの戻る場所はそこに存在しない。無限に生まれた新しい宇宙に落ち、始まりの業火に焼かれてしまうだろう。

 レッドカイザーは自らの運命を悟りながら、残り少ない時間でヴルゥに伝えなければならない事があると知った。

「すまなかった」

 道を誤ったための、一つの犠牲が目の前にいた。このまま炎を下位世界へ流し続ければ、ヴルゥを成す炎まで使い切ってしまうだろう。贖罪のためと、レッドカイザーは宇宙創生をやめることができた。

「だが、私もまた行く道を一つと決めたのだ。そのために犠牲になったもの、私のために尽くしてくれたものを、裏切るわけにはいかない。許せなければ、やれ。お前にはそれができる、その権利がある。ヴルゥ、私はもうお前の王道を否定しない」

 ヴルゥはそれを受けて、力を漲らせた。次の瞬間にはレッドカイザーの残った半身を微塵へ消滅させることができるほどの力を、しかしそうとはしなかった。レッドカイザーにはヴルゥの体が震えているように見えた。

 ヴルゥはレッドカイザーの傍らに座した。レッドカイザーはもうそれ以上何も言わず、ヴルゥが毅然としているのを側で感じていた。

 宇宙の壁が消滅し、エーテル界は無限へ開けた。




 風の運ぶ土の匂いに目を覚ますと、イャノバは一息で起き上がった。何か頭の中をぐるぐると巡っていたものはすっきりと消え、胸の奥にあった熱の塊も無くなっていた。体を撫でて過ぎ去っていく柔布に身を浸しながら、大きく息を吸って吐いた。空は藍色で、地平線にまだ黄色の名残があった。

 何も感じなくなっていた。湧き上がる怒りも、力への渇望も、宇宙を満たす力と自身の中にあった無限に近い活力も。

 なのに、世界がかつてなく広く感じられた。腹が減り、のどが渇いたのをこんなにも鮮烈に感じ、生きた実感と共にあることなどいつぶりだろうかと思った。辺りを見渡すが、黒い野が延々と広がるばかりで獣はおろか森の影もない。

 背後を振り返ると、恐ろしい高山が物言わずイャノバを見下ろしていた。冷たく、重く、抗議するような沈黙を投げているのに気付いて、イャノバはその場を立ち去ることにした。

 とにかく腹ごしらえをしなければならない。最悪は木の根をかじって凌ぐ他ないだろう。寝床も見つけなければならないのだが、木の上で寝ることもできる。木、木、木だ! 木があればなんでもできるが、それがない以上何もできない。イャノバはとにかく森を探して、首を巡らせながら歩いた。相変わらず影も形もない。

 途方に暮れながら、足が重くなっていくのに気付いた。以前のようにはもう歩けなくなっていた。息が上がるのも速い。

 イャノバは息をついた。

 なるほど、時間はかかるだろうが、必ず帰ってみせよう。

 空を見ると、ひときわ輝く星が一つあった。ウタカも同じものを見ているはずだと、イャノバには信じられた。

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