第十一話の6

 イャノバとレッドカイザーの体は今、通常の十倍近い大きさを獲得している。変化はまだ終わらない。侵食は森へ届き、海にまで伸びようとしていた。己の体に形を得るため、力に見合った質量を得るための貪食は更に続く。

『お、おい』それまで愉快に笑っていたイャノバは、不安な声色で言った。『これは、どこまで大きくなるんだ』

『この調子で現界を続ければ、この星を丸ごと食い潰したあと衛星を飲み込み、さらに近傍の二つの惑星を取り込んだのち、あの太陽を加えればこの体は形質を整えられるだろう』

 レッドカイザーは答えて、更に続けた。

『だが、それがどうした。感じるだろう、この力を! 君が欲していたものだ。力があれば守れると言ったな。ならば何を恐れる! この力があれば、君はウタカや子どもたちを守ることができるのだ、君の強大な力からすらも!』

『いや、待て、何か、何かが』

『なんだ、宇宙を灼く力を使うのに比べれば、この星を平らげることは全く安上がりではないか。この星の生命全てと、この星を照らすあの太陽を喰らえば、お前はお前の求めるものを手に入れられるぞ!』

 イャノバは自分の身に何が起こっているのか、これから何が起きようとしているのかを測りきれていなかった。レッドカイザーの言っていることが矛盾していることにも気づかず、額面だけを受け取り、なお溢れる力の実感に酔いしれてしまった。

『おれの、求めるもの……これ以上、何も失わないほどの……!』

 形の定まらない黒い塊から、ムチのようにしなる力の塊が飛び出した。神獣はそれに当たれば成すすべなく土砂へ還ってしまう。三体、五体、どのような力を持っているかなど関係なかった。瞬く間に、ただ討ち滅ぼされた。

『すごい、すごい力だ! ははは!』

 質量をえぐり取りながら成長する漆黒の物体は、巨大な火口から立ち上る爆炎を思わせた。それはただ理不尽に、区別なく、意思もなく、自然の気まぐれが宇宙の意志という無慈悲さに屈したようにただ破壊をもたらす。そうしてあいた大穴に、海の水が流れ込んで質量の糧となり消滅していく。暴力の渦は、星に涙を流すことすら許さなかった。

 漆黒の塊は星を喰らいながらさらなる成長を続けていく。小さな島であれば、とっくに一つを丸呑みにしていた。

 青かった空がいつの間にか暗くなっていた。自分たちのいる大陸の輪郭がはっきりと見て取れ、海の向こうにもう一つの大陸が見えた。あれほど巨大で恐ろしかった神獣たちの姿は、肉眼では見えないほどに縮んでいる。

 静寂があった。宇宙には神獣のエーテルが満ちているが、見渡す半径には争いなど存在しないように見えた。太陽が見下ろし、星がまたたく。この力の前に有限の宇宙のきらめきはあまりにも刹那的で、イャノバは当事者でありながらどこか遠い世界を臨んでいる気持ちになった。

 全てが小さく、無力だった。

『満足したか』

 レッドカイザーの声が、静寂を照らした。

『君が欲し、得たこの力で何かを守れるか? この体で、どうやって愛おしいものを抱きとめるのだ。君が一歩歩み寄っただけで、大切な人のさらに大切なものまで踏みつけてしまうぞ』

 イャノバは答えなかったが、肩で息をするように自意識の流れを整えようとしていた。

 星が輝いた。自ら光を放っているのではない、系に連なる岩の星の一つだった。この星よりも太陽に近く、その輝きを美しく照り返す、二つの名を持つ星である。

 明けの明星(アキノバ)、宵の明星(イャノバ)。

『手遅れになる前に、エーテルを上へ戻しておくれ。私にはもう、それもできん』

 形質を得ていない現界途上の体が強張った。レッドカイザーは祈ることしかできなかった。

 間をあけて、エーテルが質量から消失していくのを感じた。黒い塊はどんどんしぼみ、土砂へ変わって地上へ火の尾を引きながらばらばらと落ちていく。黒い巨人もその中に紛れて落下し、重さも感じさせず崩れた土砂の山に着くと膝をついてうつむいた。

『私の名が分かるか。君の名前は』

『分からない……分からないが、間違えてしまったことだけは確からしい』

 イャノバは苦しみをこらえるようにしながら、そう返した。炎はまだそこにあるが、一つの呪縛から逃れ出ようとしている。

『イャノバだ、君の名だ。君が守らなければならないのは、ウタカという。忘れるなら何度でも言ってやる』

 イャノバはその言葉を自分に馴染むように繰り返した。レッドカイザーは一旦の窮地を脱出したことに安堵しながら、新たに迫るエーテルの気配に急かされるように言った。

『イャノバ、炎は君の心を再度揺らすだろう。それまでに終わらせねばならん……何かを。私には何をどうすればいいのか、皆目検討もつかない。だが、炎はこの世界から生まれた。始まりがあるのなら、終わりを与えることもできるはずだ。そしてイャノバ、君はあの宇宙の果ての深淵で、何かを見たはずだ。君の意識を混沌とさせた何かを……君は既に炎の正体を知っているのではないか』

 レッドカイザーは歯がゆかった。イャノバはレッドカイザーの言っていること、その意味を理解できているはずだ。

 つまり、炎をイャノバの体から失わせる方法をイャノバに聞いているのだ。炎の起源が分かっているならば、それができるはずだとレッドカイザーは考えていた。だが、障害がある。他でもないイャノバ自身だ。正気を保てず、力へ異様な固執を見せている。炎が見せる蜃気楼か、あるいは潜在意識の顕在化か。どちらにせよ、持てる力を捨ててくれと、レッドカイザーは頼むしかなかった。

『……知っている、たぶん。だが……』

 時間が経てば、発作のように力への渇望がぶり返すという直感がレッドカイザーにはあった。冷静でいる今しか、イャノバを説得できる機会はない。

『イャノバ、分かるとも。力を失うことは恐ろしい。誰かを、何かを守れなくなってしまう。私がそうだ、自分自身の力に見限られ、今は弁で立つしかない。だが、私はあまり口が上手くないのだ。だから、君に私の過ちを話そう。この世界へエーテル生命を送った王は、我が子なのだ。私が一言、はっきりとやめるよう言えばこんなことにはならなかったのかも知れない。我が子と宇宙とを天秤にかけ、私は双方を取ろうと欲張った。それができると己を過信した。イャノバ、謝ろう。すまなかった。君の里を、君の肉親を、私は奪ってしまった。そして、だからこそ言わせてくれ。君にはこんな過ちを犯してほしくない。今、君の前にも天秤がある。片方の皿には君の家族が、片方の皿には力がある。選んでくれ、イャノバ』

 イャノバは静かにいた。巨人の体が強張って、震えているようだった。怒りか、それも仕方ないとレッドカイザーは認めるしかなかった。全て自分の過ちだった。イャノバへエーテルを降ろし現界したことも、炎の力を降ろしてしまったことも。何より、ヴルゥを諌められなかったことも。

『……名前は』

『なに?』

『あんたの、名前だ』

 イャノバの声が深く重く、ためらいがちだった。レッドカイザーは少し考え、答えた。

『レッドカイザーだ。さらに旧い名を、アキという』

『レッドカイザー……アキ……アキ、ノバ……イャ、ノバ……そうか』

 イャノバはその意味を噛み締めた。巨人がゆっくりと立ち上がって、空を見た。青かった空は赤みを帯びはじめていた。宇宙から、光の尾を引くものが三つほど落ちて来ている。

『エーテル界へ行く必要がある。この力を、宇宙へ返す』

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