第九話の4

 突然、イャノバは跳ね起きた。ウタカは思わず背を反らしながら、闇の向こうで見開かれ、怪しげな光を放つイャノバの瞳を見た。

「どうしたの」

「神獣だ」

 イャノバの返答はごく短かった。その声は重く、かつ鋭かった。ウタカこの半年で何度も見たイャノバの表情を思い出す。神獣が出る度に目を見開いて髪が逆立ち、それは日を追うごとにどんどん剣呑なものになっていった。

 神獣はイャノバの孤独の始まりで、孤独そのものだった。神獣と戦えるただ一人の勇者であり、神獣に里を奪われ、同じ里の戦士を奪われた。シワが人の肌に深く刻まれるように、イャノバの向ける感情はどんどん鋭く、殺気じみていく。

 ウタカはイャノバのその顔が嫌いだった。自分では彼を癒やすことができないと知らされるようで、イャノバとの間に見えない、分厚い壁があるように思えてしまう。今も手を伸ばせば届く距離にいるのに、その目は月のように高く遠い場所にあるように見えた。

「……待てよ、なんだ? なんか変だ」

 イャノバは言いながら周囲を見回した。その違和感はウタカにもあった。

 なぜイャノバは神獣が来たと分かったのだろう? そもそも普段、どうやって神獣が来たことを察知していたのか……。

「揺れが、ないよ」

 ウタカが慎重に言うと、イャノバは自分の傍らで体を起こした彼女に目もくれず、暗がりを見つめるようにして固まった。それから一呼吸置いて、イャノバは自分の左の方へ声を投げた。

「アキノバ、いるんだろう!」

『ああ』

 深い声、いや”意味”がふたりのあたまの内に反響する。

「やはり神獣は出ているのか」

『そうだ。だが、いつもと様子が違う』

「地揺れがないんだ、今度の神獣はそういった力を持っているのか」

『違う、イャノバ。神獣は遠くに出たのだ。この里の近くではなく』

 イャノバは床を這っていって、壁沿いに掛けてある人形を掴んだ。ウタカはその様子を朧げに眺めながら、イャノバが地揺れもなしに神獣の出現を感知した事実に驚いた。それもやはり、彼の内に宿る炎が与えた力なのだろうと。イャノバは本当にイャノバなのだろうか。

「遠いって、どれくらいだ」

『ここから陸を越え、海を越えたその先だ』

「そんな、どうして」

『おそらく、エーテル界の王がその力を試験的に運用することを思いついたのだろう。将来を見越して何か大きな事を企んでいるのか……なんにせよ、座標を変えることが可能になったのは面白くないな』

「歩いて行けるか? 船を漕ぐとか」

『それでは何年と過ぎてしまうぞ』

「ではどうするのだっ」

『ふむ……』

 アキノバは考えるように唸った。ウタカはその僅かな静寂が永遠に続けばいいと思った。人形が次に言うであろう言葉が、ウタカにとって望ましくないものであるとその肌が感じとっていた。

『……跳躍する。君の体にまずエーテルを降ろし、そのエーテルを質量ごとエーテル界へ持ち帰る。そして神獣のエーテルめがけて再度現界する。物質界の質量は予め得ているから、限界地点で何かを巻き込むことはないはずだ』

「できるのか、そんなことが」

『本来なら、吐き出されるか君の意識が消滅するだろう。しかし今、君の中には私のエーテルがある。上位世界のエーテルだ。それが個としての君を守ってくれるだろう。』

 それを聞いてウタカの顔が曇った。イャノバは行くだろう。本当に自分の手の届かない場所へ行ってしまうのだ。彼の内に宿る炎によって、それに導かれるようにして。

 それはアキノバさまなんかじゃない、と言えればよかった。同時にウタカには、それは決して口にしてはいけないことだとも分かっていた。

『ただしこれは神獣の力を指標に跳躍する都合、移動は片道になってしまう。帰りはそれこそ徒歩になるぞ』

「大丈夫だ、行く」

「イャノバ」

 ウタカの声は震えていた。イャノバはそれに気付かない。ただ自分の名を呼ぶ声に振り返って、彼女の細い肩に手をかけた。

「必ず戻る」

 月のような目がウタカに注がれた。ウタカはイャノバの手を両手で取り、そこに口づけをした。弱々しく、なんの祈りもこもっていない形だけの送別だった。イャノバも意味もなく頷いてみせ、ウタカから離れる。

 イャノバは人形を両手で持ち、目を閉じた。その体が漆黒へ染まっていき、暗がりへ溶けると、音もなく世界から消失した。イャノバのいた場所を埋めるように空気が流れて、ウタカの髪をぬるく揺らした。

 ウタカはしばらくイャノバの消えた虚空を眺めたあと、再び横になった。長い暖季はもうすぐ終わり、寒季がやってくる。短いが、身を芯まで凍えさせる寒季が。里はこの寒季を、子供か年寄りの人死に無しに乗り越えたことはなかった。

 ウタカはがらんどうにこころを満たされた。そして寒季の予感を忌むように、細い体を自分で抱きながら目を瞑った。




 レッドカイザーはエーテル界に戻ると、下位世界への二本目の通り道を再び作ろうとした。自分の中に限りなく“薄い”異物が差し込まれている感覚があり、それがほんの僅かな力加減の誤りで簡単に砕けてしまいそうな焦燥があった。

 イャノバの意識は感じられなかった。このエーテル界の本体へ帰ってきて、レッドカイザーの意識は簡単に物質界生命の意識を凌駕した。本来なら通常の現界でもこうなるはずだったのだが。

 下位世界にあるエーテルの塊を最初の通路で感覚し、あとからつくる通路で再度現界する。イャノバにしていた説明では簡単にできるように言っていたし、自分でもこれは造作も無いことだと思っていた。しかし実際にやってみようとして、これが果たしてうまくいくのか、急な戸惑いがレッドカイザーのうちに生まれた。

 それでも、レッドカイザーは直感を頼りに新たな通路を開け、そこへイャノバの質量とあるとも言えない量の自分のエーテルを降ろした。

 急激に世界が閉じていき、体が狭い場所へ無理矢理に押し込められる狭窄感があった。そして自分の意識が針の先のような“出口”を越えて下位世界へ濾過されると、そこに物質界があり、空間があり、質量があった。

 目の前には神獣がいる。帯のように細い腕と太い足、肩のあたりからは頭の代わりに細長い突起が前方に長く突き出ている。色は真っ黒で、胸を通って左右の肩へかかるように三日月のような太い黄色い線があった。

 若い神獣だとレッドカイザーは見抜いた。ヴルゥ傘下で、ヴルゥに心酔している。好戦的で古い時代への挑戦と野心に満ちた、独特の雰囲気をレッドカイザーは感じた。

 体の動作権はすでにイャノバのものだった。レッドカイザーはイャノバの動きに合わせ、いつでも“器”のエーテルの干渉対象や出力を変えられるように集中しようとした。

『な、なんだ』

 イャノバは体を動かすより、困惑の意を先に出した。レッドカイザーも言われて、改めて周囲の状況を確認しようとした。

 足元には金色の野が広がって、それを見下ろすようにいくつもの塔があった。塔の頭には羽のついた車輪が風を受けて回っているものもある。金色の野は水面が波紋を伝えるように波打って、その向こうには青々とした林があった。林の向こうには川があり、川の向こうには色とりどりの屋根を持つ大小異なる家が密集していた。家は木製に見えず、ある程度まとまった数が塀に囲まれて、距離を離しまた塀に囲まれた家々がある。二十を下らない数のそれが、巨人の目から見渡すことができた。

 イャノバたちとは異なる、イャノバたちのものよりも進んだ文明の姿だった。

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