第47話


 英会話の授業中に、望乃は隣の席の女の子と教科書を読み合っていた。

 クラスの女子を束ねるリーダー格である彼女は、目立つ生徒だというのに望乃に対して最初から優しく接してくれた。


 そのため、他の生徒に比べれば比較的心を許している生徒だった。


 「影美ちゃんのマスカラ可愛い」

 「あ、ありがとう…買ったばかりなの」

 「似合ってるよ。影美ちゃんさ、最近なんか明るくなったよね」


 かつては彼女から話し掛けられても上手く答えられずに、よく自己嫌悪に陥っていたものだ。


 目を逸らしてボソボソと話していた頃に比べれば、しっかりと相手の目を見て受け答えができるようになっていた。


 「そうかな…?」

 「うん。今の影美ちゃんの方が好きって言ってる子結構いるよ」


 勇気を出して変わった姿の方が良いと言われて、嬉しくないわけがない。

 口角を緩ませながら、望乃はついでにと勇気を出して、ずっと訂正したかったことを伝えた。

  

 「その…影美ってさ苗字なの。名前、望乃なんだ…」


 冗談だと思っているのか、彼女はケラケラとおかしそうに笑っている。


 しかし真剣な瞳の望乃を見て、恐る恐ると言ったように椅子の裏に貼られている名前シールを確認していた。


 「まじだ!?嘘!?」


 人気者な彼女が大声を出したため、一気に視線が集まる。


 「ねえ、皆んな!影美ちゃんの影美って苗字なんだけど!」


 驚いたように、ザワザワと教室中が騒めきだす。

 人から見られることがあんなに怖かったというのに、クラス中の視線を感じても不思議と動じていない自分がいた。


 「まじ!?言えって」

 「一年半誰も気づかなかったの?」

 「先生、なんで影美ちゃんだけ下の名前で呼んでるのか不思議だったんだよね」


 次々と上がる声がおかしくて、つい顔を綻ばせてしまう。


 「…影美ちゃ…望乃ちゃんて笑うんだ」

 「え…」

 「いつも下向いてるし、うちらのこと嫌いなのかと思ってた」


 人見知りゆえに素っ気ない態度を取るばかりに、周囲から勘違いされてしまっていたのだ。


 話し掛けても冷たい反応しか返ってこなければ、次第に周囲から声を掛けられなくなっても当然だろう。


 今までの望乃を取り囲む環境は、望乃自身が作り出してしまっていたのだ。


 「嫌いじゃない…っ」

 「……うん、やっぱりそっちの望乃ちゃんの方がいいよ」


 慌てて否定する望乃を見て、しっくりくるように女子生徒が言葉を噛み締めていた。

 

 向き合ってみれば彼女はちっとも怖い生徒ではなくて、今まで壁を作って遠ざけていたのは望乃だった。


 見方を変えるだけで、望乃の世界はそこまで怖いものではなかったのかもしれない。





 エプロンをキュッと結んで、望乃はキッチンの前で試行錯誤していた。


 彼女に喜んで欲しくて、葵がアルバイトへ行っている隙に夜ご飯を作ろうと考えたのだ。

  

 スマートフォンでレシピを調べて、それを見ながら料理を作る。

 玉ねぎをみじん切りにするときは涙が止まらず、混ぜ合わせたものを捏ねる時には手が冷たくて仕方ない。


 普段あまり料理は作らないために、慣れない手つきで必死に頑張っている状態だ。


 「あ、あれ…?」


 蓋を開けてフライパンを覗き込めば、外側が真っ黒に焦げてしまっている。

 レシピ通りの時間だというのに、なぜか丸焦げになってしまったのだ。


 お皿に出してから包丁で中を開いてみれば、未だに合挽き肉はピンク色を残したままだった。


 「生だ…」


 全然煮えておらず、これでは葵に食べさせられない。

 作り直すにしては時間が足りず、どうするべきかと立ち尽くしてしまっていた。


 今からでもコンビニで何か買ってこようかと考えていれば、玄関から扉を開く音と同時に彼女の声が聞こえてくる。


 「ただいま…あれ、ご飯作ってるの?」


 ワンルームのマンションは入ってすぐがキッチンなため、隠す暇なくバレてしまう。


 「う、うん…」

 「何作ってるの」

 「ハンバーグ…」

 「本当?やった」


 最初は喜んでいた葵だが、浮かない顔の望乃を見て何かを察した様子だ。


 付き合いが長いせいで、些細な表情の変化にも気づかれてしまうのだろう。


 「もしかして上手くできなかった?」

 「たぶん生煮えで…」

 「じゃあ煮込みハンバーグにしよう」


 手を洗ってすぐに、葵は手際良く冷蔵庫から材料を取り出し始めた。


 レシピも見ずにあっという間にフライパンに材料を放り込み、グツグツと煮込んでいる。


 「葵ちゃん…」

 「ほら、もうすぐ出来るから」


 キノコの入ったデミグラスソースをお皿に盛り付けて、2人で食卓を囲む。


 いただきますと、一緒に手を合わせて食事をするのは久しぶりかもしれない。


 ハンバーグを口に含めばきちんと火が通っていて、焦げも削ぎ落としているために苦味もない。


 何より、葵お手製のデミグラスソースがとても美味しいのだ。


 「すごい、葵ちゃん」

 「望乃の作ったハンバーグのおかげじゃない?」


 その優しさに改めて愛おしさが込み上げる。

 言葉ではない、行動で示す葵の優しさが、望乃は堪らなく好きなのだ。

 

 「葵ちゃんって本当に優しいね」

 「そんなこと言うの、望乃くらいだよ」


 照れ臭そうに頬をかく姿に、自然と胸が鳴っていた。


 珍しく照れている姿を見て、何か独占欲のようなものが込み上げてきてしまう。


 このままこの子を独り占めしたいと、我儘な思いに駆られてしまっていた。

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