32,親孝行

 ――夜。

 二人がいた時間が夢か何かだったかのように、今日は本当にいつも通りだった。

 気がついたら夜になっていて、もう寝る時間だった。


「……寝る前にトイレだけ行っとくか」


 布団に入ったが、その瞬間に尿意を感じた。

 廊下に出るとちょっとひんやりしていた。うーん、もうけっこう冬が近づいてきたって感じするなぁ。


 夏の夜は色んな虫の声がして騒がしいが、今は鈴虫の声くらいしか聞こえない。ついこの間まで蝉がうるさかったのに、本当に夏はあっという間だ。

 おれは夏が好きだ。というか寒いのが嫌いだ。だから寒い時期はずっと夏が来ることを待ち続けるが、いざ来たら驚くほど早く過ぎ去ってしまう。毎年、その繰り返しだ。


 ……おや?

 リビングから明かりが漏れていた。

 まだ誰か起きているのだろうか?


 気になってこっそりドアの隙間から様子を窺うと……ダリルとティナの姿があった。テーブルに座って、二人で何か話しているようだ。


「ほんと、子供が大きくなるのって早いわね……ついこの間まで赤ん坊だったのに、もう学校だもんね。本当にあっという間だったわね」

「はは、本当にそうだな」


 おれの位置からではティナの顔しか見えなかったが……その顔は、何だか昔を懐かしむような顔になっていた。


「……わたし、自分に子育てなんて出来るのか、すごく不安だったのよね。自分だって子供みたいなもんなのに、そんな自分なんかに子供なんて育てられるのかって……自分の子供に、ちゃんと母親らしいことしてあげられるのかなぁって」

「それはおれも同じだったよ。親になるのに試験なんてないからな。もし試験があったら、おれは絶対に落ちてたと思う」

「はは、それは確かにそうね」

「おいおい、そこは否定しろよ!?」

「だって、あなた剣術以外の試験は全然ダメダメだったじゃない」

「くっ、それはまぁそうなんだが……」

「……でも、シャノンもハンナもすごく良い子に育ってくれたわ」

「ああ、本当にな」

「だからそれはとても嬉しいんだけど……でもね、何だか思ったより巣立っていくのが早くて、ちょっと寂しいかなっていう感じもするのよね」

「……ティナ」

「特にシャノンは、。むしろわたしのほうがいつも気を使われちゃって……わたし、あの子にちゃんと母親らしいことしてあげられたのかなって……いまはそれがすごく不安なのよね」

「……」

「わたしはずっと、母親なんだから母親らしいことしなきゃって思ってたんだけど……今思えば、それはかえってあの子にとっては迷惑だったんじゃないかなって。わたしはちゃんと子育てしてるつもりでいたけど……結局、全部わたしの我が侭を押しつけてただけんじゃないかなって……」

「いや、おれはそんなことはないと思うぞ、ティナ」

「……そうかな?」

「ああ。確かにシャノンは9歳とは思えないくらい、たまにとても大人びている時もあるが……あいつは心から他人を思いやれるやつだ。ティナがシャノンに上げたかった気持ちは、きっとシャノンには伝わっているさ」

「そうかなぁ……そうだといいな」

「大丈夫だ。おれが父親として断言する。だからお前も、母親として自信を持て」

「……うん。ありがとね、あなた」


 ……おれは二人に気づかれないよう、こっそりとその場を後にした。

 さっさとトイレを済ませて、部屋に戻って布団に潜り込んだ。


「……」


 この日は何だか、すぐには寝付けなかった。



 μβψ



 ……翌朝。

 おれが起きる時間には、すでにティナはキッチンで朝食の準備を始めている。

 いつも通りの光景だ。


「……」(じー)


 いつもなら普通に挨拶するところだが、今日はすぐにそれができなかった。


「ん? あら、どうしたのシャノン? そんな物陰に隠れて?」

「あ、いえ、別に……」


 視線に気づいたのか、ティナがこっちを振り返った。

 ……一つ言っておくが、おれは決して物陰に隠れているわけではない。

 何となく出ていきにくいだけだ。その気持ちがおれの身体を物陰に隠しているだけである。


「……? 変な子ね? まぁいいわ。ちょっとお皿テーブルに並べてくれる?」

「……」

「……ん? シャノン?」


 ティナがおれを怪訝な目で見ていた。

 ……うん。

 まぁそりゃそうだろうな。明らかに変だよな。


 いや、意識することではない。

 おれはティナの子供なのだ。

 何てことない。そう、別に何てことない。さらっと言えばいい。

 おれは意を決した。


「……あの、母さま。今日……一緒にお風呂に入ってもいいですけど」(小声)

「………………え?」


 一瞬、ティナの動きが止まった。

 しばし考えるような時間があった。


「ちょ、ちょっと待って!? シャノン、いま何て言った!?」


 ものすごい勢いで迫ってきた。

 おれはちょっと後退った。

 というかあまりに照れ臭くて、まともにティナの顔が見られなかった。


「い、いえ、ですから……今日は一緒にお風呂に入ってもいいと……」

「いいの!? ていうかどうして急に!?」

「ま、まぁ、来年の春になったら学校に行っちゃうわけですし……最後に一回くらいなら入ってもいいかなと……」

「……シャノン」

「え? か、母さま!?」


 ティナの目に涙が浮かんでいた。

 え!? なに!? そんなに嬉しいの!? そんなに子供とお風呂入りたかったの!?


「ありがとうシャノン! わたし嬉しいわ!」

「ちょ、母さま!?」


 ティナが抱きついてきた。

 と思ったら頬ずりまでしてきた。


「ちょ、何ですか!? そこまで嬉しいんですか!?」

「嬉しいに決まってるじゃない! あなたの方からそんなこと言ってくれるなんて……もうそんな機会ないんだろうなって思ってたから……」

「……母さま」


 ……まさか、ここまで喜ぶとは思ってなかった。

 おれはこれまで、なるべくダリルやティナに迷惑はかけないようにしてきたが……今思えば、それって確かに子供らしくなかったと思う。

 迷惑をかけないようにすることが〝親孝行〟なんだと思っていた。


 でも……むしろ、おれはもっと迷惑をかけるべきだったのかもしれないな――なんて、今はそんなふうに思っていた。

 どこまでが頼ってよくて、どこからが頼っちゃダメなのか。その線引きがおれにはよく分からなかった。人に悪く思われることに対して、おれはとても臆病だったと思う。


 だから今世ではそれも含めてつもりだったのだが……気がつかない内に、おれは結局前世と似たようなことをしていたのかもしれない。


 あの乾杯の時のことを思い出した。

 ……おれは人間関係というものを、難しく考えすぎていたんだろうな。

 ブリュンヒルデを模した自動人形を作り続けていた晩年、おれはずっと〝心〟を数式で表そうとしてた。脳というのは一種の情報処理装置だ。だから、その仕組みを解明すれば〝心〟は絶対に生み出せると信じていた。


 でも、今はそんなふうには思っていない。

 いまおれが感じているこの気持ちは――どうしたって数式では表せそうにないからだ。


 ティナが身体を離して、おれに笑いかけた。


「ありがとね、シャノン」


 ……ちょっと恥ずかしかったが、勇気を出した甲斐はあったと思った。

 まぁ、後はおれの心臓が破裂しないかどうかだけだな……。

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