第56話 卒業ソング

 鬼柳ちゃんとは下駄箱で別れ、自分の教室へと向かう。廊下寄りの一番うしろ、自分の席へと向かう途中で声をかけられた。


「おはよう、誘拐犯」


「捕まんなよ、ロリコン」


 半笑いで挨拶されている。自分で蒔いた種とはいえ、思わずしかめっ面にもなる。この噂も七十五日で消えるのだろうかと、すこし不安になっちゃう所だった。


 ふう、と息をつき、自分の席についた。


「おはよう、大変そうだね」


 モゴモゴとパンをほお張りながら、ひとつ前の席の丸山くんはふり向いた。最近、卵不使用のパンを見つけたと喜んでいたっけ。あくまでもパン派は譲らないようで。そういうこだわり、ぼくは嫌いじゃない。


「まあね、色々あってさ。大変だよ」


 注目を集めているわけだから、なかなか謎を作る機会もとれそうになかった。誘拐犯と黒幕はどうやら相性がわるいらしい。あとはそう、クラスの女子からの視線がなんだか痛い。ものすごく痛い。


 まったく、困ったものだよ。


 昼休みに教室から抜け出したのは、そんな視線のせいだったのかもしれない。さてどうしたものかなと廊下をぶらぶら歩いていく。ひとのいない落ち着ける場所といったら、──あそこかな。


 朝の会話があったからだろうか。自然とぼくの足は音楽室へ向かっていた。どうやら、中原先輩は演奏中だ。ドアの外までメロディーが流れてきている。演奏が鳴り止むのを待ってから、静かにドアを開けた。


 中原先輩は楽譜から視線を外し、ぼくの姿をちらと見たが特に驚いた様子もなく、優しい笑顔を向けてくれる。


「守屋君か。さて、今日はどんな悩み事かな」


 さながらシスターのようだ。


 薄く白い肌。対照的に薄紅色の唇が映えている。肩までもある、つやつやとした黒髪が美しい。すこし開かれた口元が、妙に色っぽく見えてくる。本当にぼくらと一学年しか違わないのだろうかと悩む。


「悩みはべつに。どうしてですか?」


「おや、そうなのか。何かないと君は、ここには来ないのだと思っていたよ」


 意地悪く笑っている。


 どうやらさっきの笑顔は優しいソレではなかったようだ。忘れがちだけど、先輩は根に持つタイプだった。


 琴音ちゃんの誘拐をはじめてからというもの、音楽室には寄らなくなっていた。ぼくに変な噂がつくのを見越した上での配慮のつもりだったけれど、逆効果だったか。


 その前に音楽室に寄ったのは──。


 ああ、松永結愛のことを教えてもらう為だった気がする。あながち先輩の言っていることも間違いではないようだ、と苦笑。


 そんなぼくを見て、ふふっと笑い、

「冗談だ。ゆっくりしていくといい」

 と、再び演奏をはじめた。


 流れる曲は、謎のクラシックだ。


 ただ、先輩の奏でるクラシックは妙に心地よい。ほんわかと不思議な気持ちになっていたら、急に知っている曲が流れはじめてくる。どの曲にも聞き覚えがあった。


 共通するテーマは『卒業ソング』かな。演奏を終えた中原先輩はちらとぼくを眺めて、なぜかすこし口惜しそうにしている。


「どうかしましたか」


 はて、拍手を忘れたからか。スタンディングオベーションでもしてみようかしら。


「いや、なに、君が眠たそうな顔をしていたのでな。すこし泣かせてやろうと思ったのだが、どうやらダメだったようだな」


 意外な一面だった。まるで、悪戯いたずらっ子のような顔を覗かせている。


 先輩は悪戯に笑いながら、

「君は、私の卒業では泣けないか?」

 と返答に困るようなことを言ってくる。


 どう答えたものだろう。


 ぼくの困っている姿を、先輩は頬杖をついて楽しそうに眺めている。どうだろう、さみしい気はするけど泣けるのだろうか。その時になってみなくちゃわからない。


 ただ、間違いないことはひとつ。


「音楽室には来なくなりますね」


 中原先輩は、虚をつかれたように驚き、

「ふぅん。まあ、それで勘弁しておこう」

 とニヤニヤしていた。

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