第39話 捩花


 結論から言うと、俺は吐いた。

 上梨の前で。

 ははは。


 一つ弁解するさせてもらうと、俺は別にジェットコースターで気持ち悪くなって吐いた訳ではない。

 船が揺れている奴で気持ち悪くなって吐いたのだ。


 まあ、何が原因だろうが上梨の前で吐瀉物を撒き散らしたと言う結果に変化は無いので、あまりこの弁解に意味は無いのだが。


「…………」

 上梨の憐憫の視線が突き刺さる。

 いたたまれない。というか、屈辱だ。


 クソッ! 何であんな緩やかな動きの遊具なのに、腹にぽっかりと穴が開いたような感覚に陥るんだよ!

 意味不明が過ぎる。


 俺が脳内で嘔吐した事の正当性を模索していると、上梨が無言で俺の前を去った。


 ぺっ! ゲロ野郎とは一緒にいられませんってか!

 あーあ、人は誰しも胃の中に吐瀉物と同じものを有しているというのに、何故外に出てきたと言うだけでそうも嫌悪するのか? 甚だ疑問である。


 本来、外に出たか内にいるかの違いだけで何かを嫌悪するというのであれば、アウトドア派の人間を嫌悪し、引き籠りの人間に賞賛を送るべきだろう? しかし、大衆は絶対にそんな事をしない。実に風見鶏的で、場当たり的な事だ。

 有象無象のゴミ共め、もっと自分を持て!

 俺は常に自己鍛錬を……あ。


 上梨が、冷えた水を俺に差し出している。


 飲め、という事だろう。

 素直にありがたい。ドキッとしたぞ、俺は。


「すまん、ありがとう」

 上梨から水を受け取り、一気に飲み下す。

 冷えた水は口内に残っていた胃液の後味を綺麗に洗い流してくれた。

 周囲の暑さのお陰で、非常に美味く感じる。

 最高。


「ごめんなさい、私が無理にジェットコースターに乗せようとしたからよね」

 上梨は、しゃがみ込んでいる俺の顔を心配そうにのぞき込んでくる。


 ……なんか、今日はずっと上梨に心配そうな顔とか、不安そうな顔をさせている気がする。

「なあ、辛さと痛さと痒さは同系統の感覚だっていうだろ」


「え?」

 俺の突然の語りに、上梨は困惑したような表情を浮かべている。


「じゃあ、辛さと痛さを分けるものは何かというと、舌で味覚として感じるかどうかという点で分けられる。そして俺は今朝、大量にタバスコをかけたパスタを食べた後にここに来た。胃に味覚を感じる器官は存在しない。つまり、胃の中に大量の痛みを抱えたままだったという事だ! 最終的に俺が何を言いたいか分かるか?」


 上梨は少し考えた後、申し訳なさそうに目を伏せる。

「……ごめんなさい、貴方が勇気を出して自分の被虐趣味をカミングアウトしてくれた事は友達として嬉しいけれど、貴方の特殊な嗜好を満たすために私が協力する事は無いわ」

 キッパリと、そう言い切った。


「違う! 俺がしたかったのは弁明だ! 断じて自らがマゾヒストであると回りくどく表現した訳では無い!」


「貴方が胃の痛みを楽しんでいた事で、何が弁明できるの?」

 上梨は、会話が楽しくてたまらないと言わんばかりに口角を上げ、わざとらしく首を傾げる。


「少なくとも、三半規管が弱い奴であると言う汚名はそそげる。車に酔わない奴はいても、胃が痛んで吐かん奴はいないからな」

 FPSをプレイすると十分で酔うのは秘密だ。


「ふふふ、代わりに被虐趣味の汚名を被る事になったけどね」


「趣味嗜好に優劣は無い、つまり汚名ではない」

 勝った、平等主義は俺の味方だ。


 上梨は俺の言葉に少し笑い、しゃがんでいる俺に手を差し出す。

「もう、体調は大丈夫?」


「ああ」

 いざ見てみると、随分と華奢な手だ。

 上梨の手を掴み、立ち上がる。


「次は、メリーゴーランドなんてどうかしら?」


 メリーゴーランドって、急に猛スピードで回りだすギミックとかあったっけ?

「メリーゴーランドなら、ユニコーンの奴に乗りたい」


+++++


「色々乗ってたら、すぐ一時間だな。もうそろそろコーヒーカップ前に行っとくか?」

 メッセージアプリで明日香達に集合をかけている時間まで、もう十分ほどだ。五分前に着くなら、もう移動を開始した方が良い。


「あ、あの、最後に観覧車に乗らない? コーヒーカップの近くにあるから、時間にも間に合うと思う」

 上梨が、おずおずと提案してくる。


「観覧車か、分かった」

 妙に緊張している、これは何かあるな。俺には分かる。

 まあ、だからといってどうこうする訳でも無いが。


 そのまま俺達は観覧車に向かった。

 その間ずっと上梨が無言でいた為、気まずい事この上ない。


 無言のまま受付を済ませ、ゴンドラに乗り込む。

 ゴンドラ内に小さく流れている遊園地特有の軽快な音楽も、今は気まずさを加速させる事にしか役立っていない。


 何か、緊張をほぐす事を言った方が良いのか?


 唸れ! 脳みそ!

 放つぜ! 小粋なジョーク!


 ……まあ、そんな簡単に面白い事が言えるのなら、世にコミュ障などという言葉は生まれていないよな。

 要するに、脳みそは唸らなかった。

 俺の脳みそは寡黙なところがチャームポイントなのだ。


 くそ、上梨め。チラチラ俺の顔見てないで、なんか喋れ。


 ……上梨は相変わらず俺の顔をチラチラと伺っている。

 こういう時の上梨が話しかけてこない事は俺もいいかげん承知しているが、ここで俺から声をかけるのは癪だ。


 まあ、声はかけるんですけどね。

「おい、何か話したい事があるならそろそろ言った方が良いぞ。もうすぐ折り返し地点だ」


 俺の言葉に、ようやく上梨は覚悟を決めたのか、真剣な表情で俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。

「あの、ね、貴方は人を好きになった事ってある?」


 ……なるほど、こいつの口から『好き』という単語が出たという事は、少なくともただの恋バナという訳では無いのだろう。


 俺も上梨に倣い、真っ直ぐに上梨の顔を見つめ返す。

「恋愛的な意味での好きという事なら、俺は人を好きになった事は無い。友情的な意味なら、上梨と明日香が好きだ」


「っ! わ、私は、私も、貴方が好き。でもそれは友達としてでは、ない」


 上梨は潤んだ目で俺を見つめ、言葉を押し出す様に紡ぎ始める。


「私、私は、貴方が好き。ただ、これが恋なのか確信が持てないの。明日香ちゃんは恋心だって言うけれど、私には恋心だって思えない。でも、やっぱり友情ではないの」


 上梨は混乱したように言葉を散らす。

 その姿は、自分の気持ちを表す言葉が見当たらない事に、幼子のように癇癪を起しているようにも見える。


「好きって気持ちは、友情じゃないから恋愛感情になるの? 好きって気持ちは、そんなに簡単に決められるの? 好きって事は分かるけど、好きって事しか分からない」


 上梨は縋るように、俺の目を見る。


「ねえ…………鏡島貴志、私は貴方を好きって言って良いの?」


 今まで『好き』という感情をひたすら遠ざけ続けてきた上梨の言葉は、押しつぶされそうなほどに重かった。

 正直、俺だって友情とか愛情に関しては初心者だから、上梨の気持ちが何なのかは皆目見当がつかない。

 でも、一つ思う事がある。せっかく好きという言葉にはloveとlikeの二つの意味が込められてるんだ。

 それならば、口にする言葉は一つだろう。


「上梨はただ、好きって言えば良いよ」


 俺の言葉に、上梨は安心したように笑った。


「ねえ、鏡島貴志。私、貴方が好き」


「おう」


 俺の言葉を最後に、再び場に沈黙が流れた。

 しかしその沈黙は、先程のものとは違って気不味いものでは無かった。


 なんとなく、外を見る。

 やはり空は快晴で、騒々しく響く蝉の声は余計に暑さを意識させた。

 だけれども、いつの間にか俺の右手に重ねられていた上梨の手から伝わる熱は、何故かそこまで不快に感じなかった。


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