第34話 泡沫

 鏡島貴志の言葉が、延々と脳内で再生され続ける。


———たぶんお前が思ってるより、俺は上梨の事が好きだぞ———


 頭の中がふわふわする。

 幸せだ、嬉しい、そんな感情が無限に湧いて来くる。

 口角が勝手に上がろうとし、どんどん唾液が溢れてくる。

 顔を触らなくても自覚できるほど顔が熱い。

 必死に平静を装おうとしても、平静な時の自分が思い出せない。

 一緒になりたい、離れたくない、そんな感情が溢れる。

 恥も常識も投げ捨てて、今すぐ彼の手を再び口に含みたい。

 こんな訳が分からない感情、初めてだ。

 これが『好き』なのかな?

 もし私が怪物でなくなっていたのなら、心の底から好きになっても良いのかな?


 黒崎さんは、せんゆう様の落とし子が捕食するトリガーは、厳密に言うと独占欲だと言っていた。

 そして私が鏡島貴志の指を口に含んだとき、私は彼に対して確実に独占欲を感じていた。しかし、あの時は別に指を食いちぎってやろうなどとは毛ほども考えていなかった。

 これはつまり、私はもう人を食べる事は無いという事なのだろうか?


 ……どちらにせよ、黒崎さんの家に着けば分かる。

 こんな人生の一大事だというのに、今は鏡島貴志の言葉で頭がいっぱいで、変にどこか落ち着いていた。


 再び、彼の言葉を反芻する。

 そういえば、彼が私に友達になって欲しいと言ったのは、私が彼を食べようとした次の日だった。

 一緒にいたら死ぬかもしれないと実感した直後の筈なのに、彼はそれでも私と友達になりたいと思ってくれたんだ……。


 明日香ちゃんと手を繋ぎながら、ダルそうに前を歩いている鏡島貴志を見る。


 もしかして、彼は私の事が好きなのかな?

 だって、一緒にいてもデメリットしか無い私と一緒にいてくれるし、私の気持ちをなにかと汲んでくれるし、そういえば良く目も合う気がする…………いや、いや、いや、少し落ち着こう。

 明日香ちゃんに勧められた漫画の、惚れっぽい主人公みたいな思考になっている。


 鏡島貴志から意識を逸らそうと、隣を歩くセーラー服の少女を見る。

 彼女も鏡島貴志を見ていた。


 なんとなく嫌な気分になり、明日香ちゃんに視線を向ける。

 明日香ちゃんも鏡島貴志を見ていた。

 どうやら、明日香ちゃんは鏡島貴志に何か話しかけているらしい。

 少し二人との距離が離れているせいで、会話内容が聞こえないのがもどかしい。

 とはいえ、まだ自分が怪物でなくなったのか確証が得られない以上、無暗に二人に近づく事は避けたい。


 それに、もうすぐ黒崎さんの家に着く。それまでの辛抱だ。


「あいつは、どういう人間なんでしょう」

 隣を歩いていた少女が、鏡島貴志を見ながら独り言のような声を発した。


「……え? あ」

 数秒遅れて、もしかしたら自分に話しかけられたのではないかと思い至る。


 彼はどういう人間か? 


 優しい、捻くれ者、お人好し、面倒くさがり、素直、詭弁が立つ……。

 鏡山君ノートに記した色々な単語が浮かんでは消える。

 しかし、どれも彼の特徴ではあるけれど、どこか本質からはズレている様に感じた。


「……凄い人、だと思う」

 結局出てきた言葉は陳腐なものだった。だが、同時に自分の中ではそこそこ納得のいくものでもあった。


 私の答えを聞いた少女は目だけ動かして私を見ると、小さく呟く。

「聞こえていましたか」


 独り言だったのか……。

 いや、そもそも鏡島貴志や明日香ちゃんと仲良くなる前は、たいていの言葉を無視していたんだ……気が緩んでいる。


 まだ、私が怪物でなくなったと決まった訳では無い。


 私が気を引き締めた所で、黒崎さんの家が見えてきた。

 いよいよ、か。



+++++



「さあ、さっそく始めましょうか」

 黒崎さんの声が薄暗い書斎に響く。

 黒崎さんと二人きりの状況は、儀式の時の事を思い出すから少し緊張する。


「まず、美沙さんをせんゆう様の落とし子かどうか判断する方法について解説しますね」

 そう言うと、黒崎さんは引き出しから一枚のお札を取り出した。


「これは、せんゆう様の落とし子に近い魔力を持つ存在を結界に入れる札です。その……これは儀式を行った際に美沙さんを捕まえるのに使った札ですから、効果については保証できます」


 申し訳なさそうに眉をハの字に曲げながら、さらに黒崎さんは続ける。


「実の所、感度が少々良すぎるせいで稀にせんゆう様の落とし子ではない人も結界に連れ込んでしまうのですが……まあ、とにかくこの札に反応しなければ美沙さんはせんゆう様の落とし子でないと言えるでしょう」

 そう言うと、黒崎さんはさっそく地面に描かれた魔法陣にお札を置いて術を編み始めている。


 少し前に噂になっていた駅前の神隠し交差点はこれが原因か……。

 常識的な人だと思っていたけれど、案外そうでも無かったみたい。


 私が少し黒崎さんに対するイメージを下げている間に、術の準備は完了していた。

 手際が良い。儀式の際にも魔法陣を用いていたし、魔法陣を使う術が得意なのだろう。


「よし、できました。それでは、自分のタイミングで陣に入って下さい」


 足元で輝く緻密な魔法陣を眺める。

 私の暴力的な魔力ではできない丁寧な仕事に、思わず息をのむ。


 ……ここに入ったら、答えが出る。


 もし術が発動したとしても、今まで通り怪物として過ごすだけだ。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 自分に何度言い聞かせても、期待と緊張で最後の一歩がなかなか踏み出せない。


「がんばって! かみなしさん!」


 突然、後ろから大きな声が聞こえた。

 咄嗟に後ろを振り向くと、明日香ちゃんが立っている。


 鏡島貴志達と一緒に二階に行っていた筈なのだが、様子を見に来てくれたのだろうか?


「お祭り! 行こうね!」


「っ……ええ、ありがとう」


「うん!」

 明日香ちゃんの満面の笑みに、胸が温かくなる。


 もう一度、魔法陣に向き合う。

 ……大丈夫。


 目を瞑り、一歩踏み出す。


 一秒、二秒、まだ目を開けないうちに、明日香ちゃんの歓声が聞こえた。

「やった! やった! やった! かみなしさん! やったよ!」


 目を、ゆっくりと開く。


 変わらず輝き続ける魔法陣を見て、次に明日香ちゃんを見る。

 もう一度、魔法陣を見る。


 術は、発動していない。


 ……私は……もう……怪物じゃ、ない。


 涙が零れる。

 明日香ちゃんの方に振り返り、ずっと伝えたかった言葉を紡ごうと口を開く。


「……あ、明日香ちゃん、あ、のね、好き、ちゃんと、好きだから……好きなの」

 好きだって言えた、言える、言って良い。


「私も! かみなしさんのこと、好き! 大好き!」

 明日香ちゃんも泣いている。泣きながら、笑っている。


 私達はそのまま抱き合って涙を流し続けた。

 泣きながら、しかし心はふわふわとした幸福感に包まれている。


 やっと……好きに、なれるんだ。

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