第55話 「ごめんね、ゆーくん」
円花に動きがあったのは、部誌の原稿が完成した翌日のことであった。
「ゆーくん、起きて〜」
「うぐぐ……」
成竹祐志の朝は遅い。決して早くはない。
睡眠時間を多く確保しておきたいので、そんなに早起きはしない。学校から家が近く、そんなに早く起きなくてもいいので、起きる時間は他の生徒に比べれば遅い方かもしれない。
「ほら、ゆーくん起きて!」
重い瞼を開く。目の前には、パジャマ姿の円花がいる。
「まだだ。まだ目覚ましは鳴っていない。あいつが鳴ってから一時間後に起きればいいんだ……」
睡眠時間は長ければ長い方がいい。ただ、その内訳も重要である。朝、布団から出ずにゴロゴロとする、あの時間は確保しておきたい。俺はそういう人間であった。
「ほら、早く!」
「わかったわかった。ちょっと待ってくれよ」
至福のだらだらタイムをしっかりとれないのが忍ばれる。
いつもの何十倍も早く布団から脱出せしめた俺は、手元に置いてあったペットボトルの天然水を飲む。渇ききった喉には、水分が欠かせない。
過去に、脳内で水の食リポをやった記憶がある。それくらい、俺は水が好きだった。
さきほどより意識が覚醒してきたあたりで、目覚まし時計を確認する。
「おい、ちょっと待ってくれ……この時間って、もうほぼ遅刻確定じゃないか!」
これまで無遅刻を貫いてきた高校生活。ついにその記録は途切れてしまうのか。
「安心して、ゆーくん。その時計はズレているわ」
「どういう意味だ」
彼女は自身の可愛らしいスマホを突きつける。
「これが、本当の時間」
目覚まし時計と、一時間ほどズレていた。
「ちょっと待て、どういうことだ?」
俺のスマホを探す。時間は……円花のと同じだ。つまり、こっちが正しい時間というわけで。
「ワンチャン間に合うかも、とかはないのね」
「ゆーくん、鋭いね〜」
「それならなんで円花がここにいるんだ?」
「さぁ?」
至極真っ当な疑問だ。この時間である、円花も遅刻確定であろう。もし遅刻寸前の時間であれば、彼女も寝坊したのだと納得できる。しかし、この状況は……。
「……いったいどういうつもりだ。なにを企んでいる」
「これはゆーくんが悪いんです」
「俺が悪い、だと?」
「はい。きのうの発言を思い出してもらえると助かります」
円花の様子が不審だと思い、迂闊な発言のないよう、夕食開始ごろから注意してきたはずだ。
となれば、その前の段階の発言となる。
「まさか、特別デーか!?」
「イグザクトリー、おみごとです! さすがは愛しのゆーくん!」
特別デー。円花の暴走を抑えるべく、俺が制定したルール。週に一度、円花が俺に好きなことをできるといったものだ。
むろん、何でも許してしまえば収拾がつかなくなるので、限度というものを弁えるというような条件をつけたと思うのだが。
「俺を遅刻させることこそ、円花がやりたかったことなのか? いい迷惑じゃないか。理由もなく休むなんて、良心が痛む。ズル休みじゃないか」
「ズル休みではありませんよ? うまいことやりましたから」
「どういうことだ?」
率直な疑問である。基本的に、欠席連絡というのは保護者がやるものである。
それに、円花と俺が義理の
「電話はもちろん担任に繋げましたよ」
「ほう」
「私が連絡すると面倒なので、お義父さんの音声データを使って、適当に会話させておきました」
「さらっとすごいこといったなおい」
親父、いつの間に盗聴されていたらしいな。あのハイテンションな語りの切り抜きで通話したのだろうか。だとしたら、よく会話を成立させたものだ、
「欠席理由は、いちおう〝日帰り旅行〟としておきましたし、もちろん、クラスメイトには理由をぼやかすようにと頼んでおきました」
「用意周到なのはありがたいけど、やってることがやっぱり凄まじいんだよ」
「このくらい当然です。なんせ私はゆーくんの義妹ですから!」
「俺ってそんなに凄い人物だったっけ?」
「謙遜されても困りますよ〜」
円花から、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。深い眠りについていたヤンデレという属性が、その意識を覚醒させつつあるかのように思われた。
「すくなくとも円花は、策略を用いて俺を欠席させしめたというわけだな」
「そういうことですね」
「欠席させるというのは、フルコースに例えれば前菜というところだろう。では、メインディッシュはどうするつもりなんだ?」
この質問の答えを知るのは、いささか恐ろしいものである。
学校を欠席させまでして、ふたりきりの状況を作った円花だ。ここ最近、見た感じでは、どこか変化したように思われる円花であった。ただ、円花の本質自体は変わっていないということなのだろう。
「ゆーくん?」
「うん」
「私、ずっと我慢してきたんです。最近自粛していたのは、今後の
長い言葉が続いたのち、円花は俺にたずねた。やや早い口調であった。途中ぼぅっと仕掛けたため、半分ほどしかきけなかった。
「ああ。俺だって、常に合理的に動けているとはさらさら思っていない」
その答えを待っていました、とでもいうように、円花は口元を軽くほころばせる。
「そうですよね。たとえルールがあったとしても、完全に守りきることは難しいです。常に正しくあろうなんて、土台無理な話です。だから、今から私が道を踏み外したとしても、それは仕方のないことなんです。暴論だと罵られてもかまいません。私はそれを受け入れる覚悟があります。そもそも、覚悟がなければ、私は現にこうして行動を起こしていません」
彼女の瞳は、自身の生み出した、詭弁という名の酒にどっぷりと浸かっていた。同時にその酒に酔いしれていた。
俺は、彼女の言葉が脳に直接染み込んでいくように思われた。あたかも洗脳されていくようである。変な高揚感すらある。
「長々と語りすぎてしまいましたね。でも、こうしてゆーくんに語りたくなるほど、私には鬱憤が溜まりまくっていました……大丈夫です、安心してください。一線を超えるようなことはしません。それに、ゆーくんを苦しめるようなことはしません。ゆーくんが興奮し、私とともにいることを最大の幸福と思える、そんな一日にしてさしあげたいと思う次第です。ですから、ちょっと我慢してくださいね」
そういうと、円花は片腕をまっすぐ掲げた。頭のやや上の方で、手刀を形作っている。指はまっすぐ伸ばされていた。
手刀は、まっすぐ俺の首元へと吸い込まれる。突然のできごとに、俺はなんら対処することもかなわなかった。
首元に、衝撃が走る。
じんわりとした痛み。それと同時に、意識が朦朧としていく。視界はぼやけ、うまく頭がはたらかない。
「ごめんね、ゆーくん」
◆◆◆◆◆◆
ゆーくんは倒れました。手刀と、ペットボトルに入っていた睡眠薬とがあいまって、ゆーくんの意識を奪いせしめました。
さあ、いよいよ私の欲望を満たすときがきたようです……。
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